2010年3月9日(火)
ゲスト
狩野健太
1986年静岡県に生まれる。
7歳でサッカーを始めU-12ナショナルトレセン選抜入りする。
東海大学第一中学校(現 東海大学付属翔洋高等学校中等部)では、U-14ナショナルトレセン選抜、U-15日本代表候補に選ばれる。
静岡学園高等学校では、2002年全国選手権1回戦で全国デビューし初ゴールを決める。U-18日本代表候補に選べる。
2005年横浜F・マリノスに加入。ポジションはミッドフィールダー。
- 1986年
- 静岡県に生まれる
- 2000年
- U-15高円宮杯全日本ユース選手権 準優勝
- 2003年
- U-18高円宮杯全日本ユース選手権 準優勝
- 2005年
- 横浜F・マリノス 加入
- 2007年
- 第6回 U-22カタール国際トーナメント出場
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『静岡県 袋井市 愛野』
サッカー人生で忘れられない場所
思い出の場所
エコパスタジアム
高校最後の試合会場となった場所
静岡県袋井市愛野2300-1
TEL:0538-41-1800
狩野健太のココロの友
『狩野茂幸』
父
その他、撮影で訪れた場所
『つるこし』
静岡県静岡市葵区両替町2-7-1 SKT2F
TEL:054-273-6601
朝4時まで営業のうどん屋。
想像以上に大きな器で出てくるうどんはつるこしの名物。
O.Aに入らなかったエピソード
「父の存在」
もともと父親は野球だったので、あまりサッカーという感じでは
なかったんですけど、試合も観に来てくれてました。
でも、野球の方が好きな人なのでサッカーを歓迎してないってわけじゃないですけど、「疲れた」とか言ってると時々ふざけて「そんなの言ってるならサッカー辞めて野球やれ」とか言われますね。
もちろんふざけてですけどね。
サッカーやりたいと言った時は意外とすんなり始めさせてくれました。
Jリーグのビデオとかも買ってくれて見てました。
お父さんとサッカーもやったことありますよ。
でも野球の方が多いです。野球の時はキャッチボールだったり、父親が打ったボールを自分が取ったり。
サッカーの時はセンタリング上げてもらってヘディングしたり。
野球派と言いながらも意外とサッカーも上手かったんで練習になってました。
両足使って蹴れたし「両足蹴れるようになった方がいいよ」とか言われました。
「もっとこうした方がいい」っていう感じのアドバイスをたくさんもらいました。
小学校の時は試合のハーフタイムでベンチの裏まで来て「もっとこうしろよ。逆サイドが空いてたらそこ使えとかもっと早くボールを捌け」とか、どんどん指示出されて…うるさいまでは言わないですけど、言ったらサッカーの素人にそんなこと言われたくないよ!って感じでしたけど。
監督じゃないしむしろ素人ですからね。
アドバイス程度ですけどいろいろと指導してくれました。
当時は認められたくて、父親とかに試合を観に来られるのが嫌な子とか結構いたんですけど、僕は逆に認められたかったんで、試合中でも姿探してやってましたね。
で、父親もほぼ毎回観に来てくれましたね。
―――お世話になった人はいっぱいいますけど
やっぱり父の存在が1番大きかったですね。
狩野健太のココロの旅とは?
(父の)そういう気持ちを聞けて素直に嬉しかったし
プレーで恩返ししていきたいと思います。
2010年3月2日(火)
ゲスト
酒井美佳
1975年大阪府に生まれる。
プロボウラーで父である酒井武雄が初めて全日本選手権で優勝したのを見て感激したことをきっかけに、自身もプロボウラーを目指す。
1992年当時最年少記録でプロテストに合格。初の親子プロボウラーが誕生する。2002年父とダブルスを組み全日本ミックスダブルス史上初の親子優勝を果たす。同年、東海女子オープンでもシングルス初優勝を成し遂げる。
2006年に行われた宮崎プロアマオープンでは自身初の公認パーフェクトを達成する。現在はビジュアル系プロボウラーとしてテレビ、雑誌などでも幅広く活動している。
- 1975年
- 大阪府に生まれる
- 1992年
- 当時最年少記録でプロテストに合格する
- 1997年
- 父 酒井武雄とダブルスを組み全日本ミックスダブルスにて
準優勝
- 2002年
- 全日本ミックスダブルス史上初の親子優勝
東海女子オープンでシングルス初優勝
- 2003年
- イーグルクラシック 2位
- 2005年
- DHCツアー第1戦 優勝
- 2006年
- 宮崎プロアマオープン 3位
JLBCプリンスカップ 2位
- 2007年
- 六甲クィーンズオープン 8位
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『大阪府 門真市 速見町』
プロを目指し練習した場所
思い出の場所
古川橋ボウル(現:LOUNGE&BOWL B-lax)
高校生の頃 ボウリングに明け暮れた場所
大阪府門真市速見町9番9号
TEL:06-6909-2311
酒井美佳のココロの友
『酒井武雄』
父
現役プロボウラーとして歴代3位の優勝回数を誇る
その他、撮影で訪れた場所
『cafe de W.I』
大阪府門真市新橋町8-6 AMENITY夢IIビル1F
TEL:06-6908-0190
美味しいお酒にこだわる名物マスターとの会話も楽しめるアットホームなカフェバー。
O.Aに入らなかったエピソード
「芽生えた夢」
中学2年生まで全くボウリングには興味がありませんでした。
ほとんどやったこともなかったんです。
お父さんは試合で家に居ないことが多く、家でもボウリングの話はしないのでボウリングとはどのようなものなのかも全く分からなかったです。
でもその父が「試合を観においで」って家族を招待してくれました。
初めてでしたね、そんなことは。
プロボウリング協会でも一番大きい全日本選手権っていう大会なんですけども、父はそのタイトルだけ、それまで獲っていなくて…。
どうしても獲りたいそのタイトルを、家族の前で獲得したいということで呼んでくれたんです。
父は家族の観てる前で優勝しました。
父は泣いていましたね。
その父の姿に私も感動して「私もボウリングを始めてみたい」って思ったんです。
実際、その日帰って「私もやりたい」って父に伝えたら、「高校受験が終わってから始めよう」って言ってくれました。
―――大きな夢への小さな芽吹き。
実際始めて見ると
思ってた以上に大変でしたけどね。
酒井美佳のココロの旅とは?
頑張っていこうと思える1日でした。
2010年2月23日(火)
ゲスト
浅越しのぶ
1976年、大阪府枚方市に生まれ、その後兵庫県で育つ。
小学4年生で軟式テニスを始める。中学1年生の時に硬式テニスへ転向する。1997年プロデビュー。2000年にウィンブルドン本戦初出場。2003年バーミンガムの大会でマリアシャラポアに勝利。2004年全米オープンでは初のベスト8。WTA最高ランキングはシングルス21位。ダブルス13位。2006年引退表明。2009年、2010年日本オリンピアンズ協会 代議員を務める。さらに、テニスの普及活動の他テレビなどでも活躍中。
- 1976年
- 大阪府に生まれる
- 1986年
- 軟式テニスを始める
- 1989年
- 硬式テニスへ転向する
- 1994年
- インターハイ シングルス優勝
- 1997年
- テニスプレイヤーとしてプロデビュー
- 1999年
- 全日本テニス選手権 シングルス優勝
- 2000年
- ウィンブルドン本戦初出場
- 2004年
- 全米オープンベスト8
- 2005年
- WTA世界ランキング シングルス自己最高ランキング(21位)を記録
- 2006年
- 現役引退
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『兵庫県 尼崎市 南塚口町』
自分のテニスの原点になっている場所
思い出の場所
園田学園
中学生から大学生までテニスを学んだ場所
園田学園女子大学キャンパス内 テニスコート
兵庫県尼崎市南塚口町 7-29-1
浅越しのぶのココロの友
『積 恵美、片山富美枝』
園田学園時代 学生寮で共に過ごした仲間
その他、撮影で訪れた場所
『居酒屋 かわぐち』
兵庫県尼崎市南塚口町8丁目12-10
TEL:06-6422-3096
園田学園のすぐ傍に店を構える、落ち着いた雰囲気の居酒屋。
新鮮な魚料理の他、お酒と相性のいい1品が揃っている。
O.Aに入らなかったエピソード
「3人の寮生活」
浅「私たち3人一緒の部屋だった頃があるんですよ」
片・積「地震の後ね。」
浅「あれはもう…ぐっちゃぐちゃやったな〜。」
片「どうなんねん!と思ったなぁ。」
浅「でもあれはあれで楽しかったけどね。1人部屋もいいなと思ったけど、3人もいいなぁみたいな。」
積「まさか3人押し込められるとは思わんかったけど。」
片「その3人部屋も、3人部屋じゃなくて2人の部屋に3人入ってたからな」
積「で、ベッド1つ無いから…」
片「ベッド手作りで作った、と。」
浅「ほんと楽しかったなぁ…地震があったけど、あんまり悲しまず楽しく出来たっていうか、そういう時もあったね。」
浅「もし、1人やったらどうやった?」
積「1人やったら帰ってる!家に。」
浅「逃げる?」
積「逃げる!」
浅「そうやんなー。意外と寂しいのが多かったんかなぁやっぱり。」
積「小学校出たばっかりやったしね。」
浅「1番最初さぁ、なんかもう…こんにちは〜…みたいな感じやったな。」
積「よそよそしかったもん。」
浅「子どもってすぐ慣れるもんやな。すっごいもん。最初なんか、誰やろこの人らー!みたいな感じ。全然違う所から集まってるからさ。」
積・片「そうやなぁ」
浅「トミ(片山)の方言も酷かったしなあ。」
積「何言ってるかわからへん」
浅「わからへんしなぁ。」
片「あんた(浅越)やで!ナントカやんけぇ!ばっか言うとったの。」
積「けぇけぇ〜」
浅「田舎もんやったからな。懐かしいな、思い出したら。もう、隣のあの子の部屋行こうかなぁ〜どうしよっかなぁ〜て感じやったけどな、最初。」
片「エミ(積)は「ヨー」ばっか言ってるしな。」
浅「よ〜よ〜」
積「そんなん言ってたっけ?」
浅「やっぱり子どもの頃って馴染みが早いっていうか」
片「他の友達とは違うな。全部を見せれる。変な話、ずーっと一緒やったもんな。」
浅「もう、ご飯も一緒やし、お風呂も一緒やし、練習も一緒やしなぁ。」
片「外側の部分も内側の部分も全部知ってる。」
浅「家族より一緒にいる時間が長かったもん。」
―――家族より一緒にいる時間が長かったもんな…
浅越しのぶのココロの旅とは?
ここでテニスを学んで良かったと思いました。
2010年2月16日(火)
ゲスト
澤田洋史
1969年大阪府に生まれる。
近畿大学商経学部経営学科卒業後、紀ノ国屋インターナショナルに入社。
当時、世界最年少の25歳でフランスチーズ鑑評騎士(シュヴァリエ デュ タスト フロマージュ)の称号を叙任。その後、2001年アメリカのシアトルへの語学留学中、本場のラテアートと出会う。帰国後、ディーンアンドデルーカジャパンに入社。丸の内店など多数の店舗を立ち上げ、プライベートブランドやカフェメニューの開発、バリスタのトレーニングなどに幅広く活躍する。
2006年カフェ全般のコンサルタントとして独立。2008年ラテアートの国際大会にて歴代最高スコアでアジア人として初の「フリーポア ラテアートワールドチャンピオン」に輝く。2009年にはテレビCM出演や「フリーポア・ラテアート」の著書を発表するなど幅広い分野で活躍している。
- 1969年
- 大阪府に生まれる
- 1992年
- 株式会社 紀ノ国屋へ入社
- 1995年
- フランスチーズ鑑評騎士の称号を叙任
- 2001年
- アメリカ シアトルへ語学留学、ラテアートと出会う
- 2003年
- 帰国後、ディーンアンドデルーカ ジャパンに入社
- 2006年
- カフェ全般のコンサルタントとして独立
- 2008年
- フリーポア ラテアートワールドチャンピオンになる
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『東京都 千代田区 丸の内』
ラテアートの楽しさを知った場所
思い出の場所
DEAN & DELUCA 丸の内
ラテアートの技を磨いた場所
東京都千代田区丸の内1-4-5 三菱UFJ信託銀行本店ビル1F
TEL:03-3284-7071
澤田洋史のココロの友
『保井敏志』
友人
澤田がDEAN & DELUCAに勤めていた頃に出会った人
その他、撮影で訪れた場所
『個室居酒屋 番屋 八重洲店』
東京都中央区日本橋3-3-15 日本橋K1ビル1F、2F
TEL:03-3281-5581
東京八重洲で創業35年。和の伝統と誇りを重んじた店構えで、本格板前が料理する四季折々の味覚が味わえるお店。
O.Aに入らなかったエピソード
「大会で知った世界のレベル」
お店に勤めて3年ぐらいしたとき、自信もついてきたし海外のラテアートの大会に出てみようと思ったんです。
日本では自分が1番上手いかなと思ったんですけど全然レベルが自分自身低くて。最初の大会はもう完全に予選落ちというか、実力の20%以下しかもう出せない。
緊張で手が震えるし。普段使ったことの無いコーヒー豆とミルクだし。自分の実力が出せないっていうのもあったし、海外の選手のアートのレベルが全然、大会に出てくるレベルは非常に高かったんですよね。
当時の私よりも全然周りの選手の方が高かったですよね。自分は技術的にも足りないし、メンタル面でも弱くて全然だめでした。でも出場することで学ぶことが非常に多かったんですね。
それで何回も出場してると選手同士仲良くなって情報交換出来たりとか、あと他の選手のテクニックを見て、その上を目指す、と。大会出ることで自分の実力が高くなったかなと。
―――挑戦し続けることの大切さを知りました。
澤田洋史のココロの旅とは?
これからも挑戦し続けたいと思います。
2010年2月9日(火)
ゲスト
藤田俊哉
1971年静岡県に生まれる。
清水商業高校、筑波大学を経て、1994年ジュビロ磐田に入団する。
1997年、1999年、2002年のリーグ優勝や1999年のアジアクラブ選手権(現在のアジアチャンピオンズリーグ)優勝など、ジュビロ磐田の黄金期を支えた。2003年にはオランダのユトレヒトでプレー。帰国後、ジュビロ磐田に復帰するも、2005年シーズン途中に名古屋グランパスエイトへ移籍。
2009年からはロアッソ熊本に加入している。ミッドフィールダーとして史上初のJリーグ通算100得点を記録しており、日本代表としては24試合出場3得点を決めている。
2007年よりJリーグ選手協会会長を務め、サッカーの普及に尽力している。
- 1971年
- 静岡県に生まれる
- 1994年
- ジュビロ磐田に入団
- 1998年
- Jリーグベストイレブンに選ばれる
- 2001年
- Jリーグベストイレブン・年間最優秀選手に選ばれる
- 2002年
- Jリーグベストイレブンに選ばれる
- 2003年
- オランダのユトレヒトに移籍
- 2004年
- 帰国後、ジュビロ磐田に復帰
- 2005年
- 名古屋グランパスエイトへ移籍
- 2009年
- ロアッソ熊本へ移籍
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『静岡県 静岡市 清水区』
プロの世界に引っ張っていってくれた場所
思い出の場所
静岡市立清水第五中学校
高校時代 朝練の前に朝練をしていた場所
静岡県静岡市清水区三保1720
藤田俊哉のココロの友
『三浦文丈』
先輩
横浜マリノス(現 横浜F・マリノス)等で活躍
その他、撮影で訪れた場所
『桝形』
静岡県浜松市肴町316-40 桝形ビル3F・4F
TEL:053-452-0498
創業明治24年。老舗の味を堪能することができる名店。
モットーである「お客様が一番に楽しんで頂ける空間作り」は店内のカウンター席から和室まで、至る所に行き届いている。
O.Aに入らなかったエピソード
「熱」
飽くなきサッカー熱
サッカーは小学校4年生から始めました。
サッカーをやりたくて仕方がなかったんですけども、僕はそれまでスイミングスクールとか体操とかボーイスカウトとかそんな色んなことをやっていた関係で、まぁ体もそんなに大きくないし、というか小さかったんで色んなスポーツをやらせてからサッカーをやらせる、そういう風に親は考えてたらしいです。
小さすぎてサッカーは怪我するから、他のもので体を鍛えてからサッカーをやらせたいと。
いつもサッカーがやりたいやりたいと両親に言ってて、やっと4年生になってやらせてもらえる!って感じでしたね。
少年団はそんなに強いチームではなかったのでそんなに良い成績は残せませんでしたけれども、個人的には選抜チームに入ってたりとか、凄く充実してサッカーしてたと思います。
とにかくサッカーが楽しかった。
サッカーが遊びだった。
―――サッカー=遊び―――
今でこそ子供が遊ぶゲームが、色々と世の中にありますが僕らの時代は、今のようにゲームがあって当たり前の時代ではなかった。
今の子供が、ゲームに熱中する感覚と、僕らがサッカーに熱中していた感覚は同じようなものなのではないでしょうか。
藤田俊哉のココロの旅とは?
新たなエネルギーを貰えた旅でした。
2010年2月2日(火)
ゲスト
京谷和幸
1971年、北海道に生まれる。
元Jリーガーでジェフユナイテッド市原のMFとして活躍。1993年、交通事故により脊髄損傷になり車椅子生活となる。リハビリの一環として車椅子バスケットボールをはじめるが、その躍動感・充実感を知ることになり、2000年シドニーパラリンピック、2004年アテネパラリンピックに日本代表として出場。2008年の北京パラリンピックには日本選手団の主将として出場する。
現在は、株式会社インテリジェンス提供の障害者専門人材サービス事業にて、自身の経験や視点を生かし、企業や個人に向けたアドバイスを行う“障がい者リクルーティングアドバイザー”として活動するとともに、障がい者スポーツを多くの人たちに広めたいと全国で講演会や車いすバスケットボール教室なども積極的に行っている。
- 1971年
- 北海道に生まれる
- 1991年
- ジェフユナイテッド市原へ入団
- 1993年
- 交通事故により脊髄損傷になり車椅子生活となる
- 2000年
- シドニーパラリンピック 日本代表
- 2002年
- 北九州ゴールドカップ(世界選手権) 日本代表
- 2004年
- アテネパラリンピック 日本代表
- 2006年
- アムステルダムゴールドカップ(世界選手権) 日本代表
- 2008年
- 北京パラリンピック 日本選手団の主将として出場
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『千葉県 千葉市 稲毛区』
初めて車椅子バスケットを行った場所
思い出の場所
千葉県障害者スポーツ・レクリエーションセンターの体育館
車椅子バスケットに巡り合い 現在も練習している場所
千葉県千葉市稲毛区天台6-5-1
京谷和幸のココロの友
『小瀧修』
恩人
京谷を車椅子バスケットボール界に導く
その他、撮影で訪れた場所
『室蘭焼鳥 男吉 浦安店』
千葉県浦安市北栄1-7-27 日邦マリンコート1F
TEL:047-380-9494
室蘭焼鳥とは、焼鳥なのに豚串がメイン、そしてねぎではなく、玉ねぎが詰まっている、大変香ばしい焼鳥。
産地を厳選して集めた新鮮食材を新鮮なうちに提供している。
O.Aに入らなかったエピソード
「車椅子バスケをものにする」
何をどう動かしていいかわからないし…。
昔は何か、今は本当にウォーミングアップにもならないですけどこの体育館を10周走るんですよ。
で、終わったら逆10周走って…それがね、非常に辛くてね。
最初の頃は、僕が5、6周走ったら、みんな終わってるんですよ。
で、僕が走り終わるまで待ってるわけですね。
僕がついたら次、逆へすぐ走るから、休みなくまた次走るわけですよ。
物凄くしんどくて、腕がパンパンで、うわっきついって思って…ああ、もう嫌だって思いました。
まだ、そんとき、自分のサイズの競技用の車椅子って持ってなかったんで人の借りてたわけですよ。
体に合わないんで、更にキツイんですよね。
その当時、小瀧さんが仕事で忙しくて来れてなかったんで、小瀧さんの車椅子借りてたんですけど、ちょっと合わなかったんですね。
やっぱり…いろんな感じで、自分の身長と違いますからね。
そういうので、やっぱ最初はしんどかったなっていう思いしかないですね。
きついなって思いしかないですね。
1年やってもついていけない奴はついていけないですからね、そういうレベルですからね。
はいやります、すぐできますかって言ったら、できませんから。
それは本当に、それだけ厳しいんですよ、慣れることに対して色んな痛みにも慣れなきゃいけないし、色んなものに耐えていかなきゃいけないんで…
やっぱりものになるには1年ぐらいかかるでしょうね、普通に動けて、ちょっと見劣りしなくなってくるのは。
それでもまだまだ全然のレベルですけどね。
―――掛けた時間は裏切らない。
僕は、それ以上掛かったんじゃないですか?最初は。
でも、自分はやっぱり、やることが明確になって、目標ができたら、そっからもう早いんで、
更にハッパをかけて頑張れるって気持ちになったと思うんですよ。
京谷和幸のココロの旅とは?
新たな自分の原点に戻れた、良い旅だったと思います。
2010年1月26日(火)
ゲスト
阿部勇樹
1981年、千葉県に生まれる。
中学校に入学と共にジェフユナイテッド市原ジュニアユースへ入団。当時最年少の16歳10ヶ月30日で、Jリーグに初出場する。
2002年、ツーロン国際大会では左のボランチで5試合フル出場。アジア大会ではリベロで6試合中5試合出場。結果は日本史上初の準優勝。
2004年、アテネ五輪最終予選日本ラウンドは、U-23日本代表に復帰。2005年、ヤマザキナビスコカップではニューヒーロー賞 受賞、そしてこの大会でチームは初優勝、2006年でも優勝と2連覇達成。2007年、浦和レッドダイヤモンズへ移籍。
この年のアジアチャンピオンズリーグで、日本クラブとして初優勝。
現在もミッドフィールダー、ディフェンダーと様々なポジションをこなせるユーティリティープレイヤーとして活躍中。
- 1981年
- 千葉県に生まれる
- 1994年
- ジェフユナイテッド市原ジュニアユースへ入団
- 1997年
- Jリーグ初出場
- 2000年
- ジェフユナイテッド市原へプロ入り
- 2002年
- 釜山アジア競技大会出場
- 2004年
- アテネオリンピック出場
- 2005年
- 東アジアサッカー選手権2005出場
- 2006年
- Jリーグ ベストイレブン受賞
- 2007年
- 浦和レッドダイヤモンズへ移籍
FIFAクラブワールドカップ2007出場
Jリーグ ベストイレブン受賞
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『千葉県 市原市 姉崎海岸』
一生懸命練習した場所
思い出の場所
姉崎公園サッカー場
プロサッカー選手としての原点
千葉県市原市姉崎海岸23-2
阿部勇樹のココロの友
『大木誠』
恩師
Jrユース入団から6年間 阿部を指導
その他、撮影で訪れた場所
『レストラン ログチャチャ』
千葉県市原市五井西2-6-1
TEL:0436-25-6688
ジェフユナイテッド市原・千葉の選手たちに愛されているお店。店内には、ジェフ選手のサインやグッズがズラリと展示。
特に人気のメニューは、じっくりと時間をかけて煮込まれたカレーやハンバーグ。
O.Aに入らなかったエピソード
「大木監督との出会い」
きっかけはまぁ幼稚園の時にサッカーの授業があってそこから初めて、友達と一緒に蹴ったりするっていうのが楽しくて、始めました。
いや、一つのボールをみんなで追いかけて蹴ったりして、喜んでたりするのが楽しかったなっていう思い出はありますね。
野球もたまにやりましたよ。たぶん野球のセンスが無かったからだと思いますけれど、やっぱり、サッカーが何か楽しいと感じたからずっとやってきたと思います。
幼稚園卒業してサッカークラブに入ってそこから、きちんと練習を始めたのかな?
そこのサッカークラブは1年生から4年生まで入って、それからは部活動に入りました。
当時、周りよりも上手かったとかは、なかったと思いますね。
足は速い方で、ポジションはその時から、バラバラでした。
前やったり、後ろやったり、キーパーもやりましたよ。
その後テストを受けて、Jrユースへの入団が決まったのですが、素直にうれしかったですね。
―――『好き』が仕事になる。
阿部勇樹のココロの旅とは?
更に頑張らなければいけないと感じた旅でした。
2010年1月19日(火)
ゲスト
松本和将
1979年岡山県に生まれる。
幼い頃よりピアノに目覚め、高校在学中 地元で演奏活動を行うと共に、ホロヴィッツ国際ピアノコンクール第3位など国内外のコンクール高校の部で上位入賞。また、ジュニアオーケストラやバンド等、幅広い音楽活動を経験する。
1998年第67回日本音楽コンクールに優勝し、併せて増沢賞はじめ全賞を受賞。1999年より各地でソロリサイタルや国内外多くのオーケストラとの共演、海外での演奏会に出演するなど活発な演奏活動を行っている。
2003年には世界三大コンクールの一つ、エリザベート王妃国際音楽コンクール(ベルギー)で日本人最高位の第5位入賞を果たす。
2006年にはベートーヴェン3大ピアノソナタで全国ツアーを行う。
また、現在までに9枚のCDをリリース。最新作は、昨年7月にリリースされた『ピアノのための後期ロマン派名曲集上巻・下巻』。
- 1979年
- 岡山県に生まれる
- 1998年
- 第67回日本音楽コンクール 優勝
- 2000年
- 「ヴォカリーズ」でCDデビュー
- 2001年
- 第53回ブゾーニ国際ピアノコンクール 第4位
- 2003年
- エリザベート王妃国際音楽コンクールにて日本人最高位となる第5位入賞
- 2006年
- ベートーヴェン3大ピアノソナタで全国ツアーを行う
- 2009年
- 「ピアノのための後期ロマン派名曲集 上巻・下巻」をリリース
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『岡山県 倉敷市 庄新町』
松本のピアノの先生がいる町
思い出の場所
芦田先生の自宅
7年間通っていたピアノ教室
松本和将のココロの友
『芦田田鶴子』
恩師
松本のピアノの先生
O.Aに入らなかったエピソード
「芦田先生との出会い」
芦田先生はご自身が演奏家でもいらっしゃるんで、たくさん弾いて聞かせてくださいましたね。
ここはこういう風に…ここはこうしなさい…とかじゃなくて、ここはこんな風に弾いてっていう実際の弾き方とか音とかを聞かせて下さるので、すごくわかりやすかったです。
あとは、すごくロマンチックな音の作り方をされると思います。
ちょっと説明が難しいんですけど、クラシックっていうジャンルなんで、ここはこういう風に書かれててこういう規則だからこうしないといけない!みたいな先生もいらっしゃるんですけど、まぁそれはそれで大事なことだと思うんですけど、芦田先生の場合は感情豊かに教えられる先生でしたね。
もちろん基礎もしっかり教えて下さいましたけど、学問的な事だけじゃなく感情の部分もしっかり教えてくださいました。
先生は弾いて聞かせて下さった後、楽譜にいろいろ書いてくださったりとかして。
でもその書き込みが汚くて、なかなか読めないんですよね…なのでそこを家に帰って解読するところから始まってましたね。
―――このピアノ教室は練習嫌いな少年の唯一の練習場所だった。
松本和将のココロの旅とは?
また先に進む力のようなものを貰ったかなと思います。
2010年1月12日(火)
ゲスト
米田功
1977年、大阪府に生まれる。
7歳から体操を始め、全国中学生大会で個人総合優勝。
清風高校時代にインターハイで個人総合2位。
順天堂大学に進み、1997年の全日本学生選手権個人総合2位、1998年のNHK杯で個人総合優勝。1999年には全日本学生選手権個人総合優勝、全日本選手権の鉄棒で優勝を果たす。
シドニーオリンピックでは、まさかの代表落選。
その雪辱を晴らし、2004年のアテネオリンピックでは日本男子体操のキャプテンとしてチームを牽引。団体で28年ぶりとなる金メダルを獲得。
種目別の鉄棒でも素晴らしい演技を見せ、銅メダルを獲得。
アテネオリンピック後の度重なる手術を乗り越えた2008年NHK杯での演技は、観る者に感動を与えた。惜しくも北京オリンピック代表の座を逃すが、金メダリストとしての経験をもとに、アイデアヒューマンサポートサービスにて、トップメンタルトレーニングを開講。同時に、2012年の米田功体操クラブ設立に向けて準備を進めている。
- 1977年
- 大阪府に生まれる
- 1998年
- NHK杯 個人優勝
ワールドカップ ゆか3位
- 1999年
- 全日本学生選手権 個人優勝
NHK杯 個人 3位
全日本選手権 鉄棒優勝
- 2002年
- 世界種目別選手権 鉄棒3位
- 2003年
- 全日本選手権 団体優勝・個人優勝・ゆか優勝
- 2004年
- NHK杯 個人優勝
社会人選手権 団体優勝・個人優勝
全日本選手権 団体優勝・個人3位・鉄棒優勝
アテネオリンピック 団体優勝・個人総合11位・鉄棒3位
ワールドカップ ゆか2位・鉄棒2位
- 2007年
- 社会人選手権 個人総合5位
- 2008年
- NHK杯 個人総合8位
現役引退
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『東京都 世田谷区 経堂』
オリンピックを目指す原点となった場所
思い出の場所
菅谷整骨院
大学時代通っていた場所
菅谷整骨院
米田功のココロの友
『宮武誠』
恩人
米田と二人三脚でオリンピックを目指した
その他、撮影で訪れた場所
『BISTRO 膳菜や』
東京都世田谷区南烏山6-4-8 プラザ六番館1F
TEL:03-3307-3622
細部にまで行き届いた照明があなたを大人の空間へと誘います。
多くのメニューの中でもモツ鍋&トマト鍋がおすすめ。
O.Aに入らなかったエピソード
「基礎力=総合力」
小中高は、あの池谷選手とか西川選手っていう、凄いオリンピック選手をたくさん出してる名門のクラブで、そこで入ると、清風中学清風高校って、みんな同じような感じで登ってくんですよ。
その一貫した教育が基礎から、自分たちでやる体操になって、そっから大学に行くという凄くいいリズムが、システムが出来上がっているところが大阪にあって、そこで僕は学んでいたんですけどやっぱり小学校はすごく厳しくて。
先生も、威圧感たっぷりな感じで、やらなきゃシバかれるみたいなそういうところで、徹底的に基本を教えてもらったんです。
技とか全然やらしてもらえなかったんですけど、もう徹底した、膝とかつま先とか見た目でちゃんと分かるような、基本的なことをずーっと教えてもらってたので厳しかったんですけど、ほとんど体操の原点はそこで教えてもらったっていう感じでしたね。
中学校はもう全国で優勝してたので、周りからは、中学校くらいはもう、天才って言われてましたね。
だからそれなりに評価はされていて、でもその周りの選手も皆すごい選手ばっかりなんです。
だから、僕だけ凄いのではなくて、そこにいるクラブみんなが凄いんです。
クラブ自体が評価が高かったり、その先輩とか、今まで築いてきた方々がすでに凄い人たちばっかりだから、その列に並んでたって感じでしたね。
―――基礎力が天才を形成する。
クラブで教わったことが、僕の原点ですね。
米田功のココロの旅とは?
新しい夢に向かって一歩を踏み出せた旅でした。
2010年1月5日(火)
ゲスト
矢内理絵子
1980年、埼玉県に生まれる。
8歳で父親に将棋を教わる。関根茂9段門下。1990年女流育成会入会。
1993年プロ(2級)に。1995年の第6期女流王位戦でタイトル戦初登場。
1997年、第8期女流王位戦で清水市代を下して初タイトルを獲得するも翌年失冠。2006年、第32期女流名人位戦で2度目のタイトルを獲得。
2007年レディース・オープン・トーナメント優勝、女流名人位タイトルを初防衛。2008年女流名人位タイトルを二年連続防衛、三連覇を達成する。
また、第1回マイナビ女子オープンにおいて初代女王の座も獲得し、自身初の二冠となる。その後、2009年に女流名人位は失冠するものの、女王タイトルは防衛し、二連覇を達成。
- 1980年
- 埼玉県に生まれる
- 1988年
- 8歳で将棋を始める
- 1990年
- 女流育成会に入会する
- 1993年
- 女流2級に昇段、プロになる
- 1997年
- 第8期女流王位戦で初タイトル獲得
第12回レディース・オープン・トーナメント 優勝
- 2005年
- 第32期女流名人位戦でタイトル獲得
第33回 将棋大賞最優秀女流棋士賞 受賞
- 2006年
- 第19回レディース・オープン・トーナメント 優勝
第34期女流名人位戦でタイトル初防衛
- 2007年
- さいたま輝き荻野吟子賞個人賞 受賞
第35期女流名人位戦でタイトル二年連続防衛(三連覇)
- 2008年
- 第1回マイナビ女子オープン初代女王獲得
- 2009年
- 第2回マイナビ女子オープン女王獲得防衛(二連覇)
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『東京都 渋谷区 千駄ヶ谷』
プロになるために育ててくれた場所
思い出の場所
将棋会館
プロ棋士を目指し学んだ場所
東京都渋谷区千駄ヶ谷2-39-9
矢内理絵子のココロの友
『本田小百合』
女流棋士 二段
その他、撮影で訪れた場所
『北前そば高田屋 千駄ヶ谷店』
東京都渋谷区千駄ヶ谷1-30-8 第7大京ビルB1F
TEL:03-5772-0563
北前そばと北海道の厳選素材の旨い肴が味わえる、落ち着いた雰囲気の和風居酒屋。
O.Aに入らなかったエピソード
「将棋にハマる」
はじめ、将棋をやるのはちょっと嫌でしたね。
やっぱり周りのお友達も将棋はやってないですし、将棋の教室とか道場とかどこに行っても周りがおじさんばっかりで、何で私はここにいるんだろうっていう風にいつも思ってました。
でも、小学校4年生の時から師匠の関根茂九段の教室に通い出しまして、そこで師匠から手ほどきを受けましたら、本当に将棋のゲームの楽しさっていうものを改めて教えて頂いて、それでまぁ自分でもちょっと頑張ってみようかなっと思いましたし、頑張った結果今度はおじさんと対等に闘えるようになって、しかも女の子がおじさんに勝てるようになって、目の前のおじさんが本気で悔しがってる姿を見て「あ、これは面白いな」と思いました。
本当に将棋っていうゲームは、そういう年齢とか性別とか関係なしに勝負が出来て、楽しめるものなのでそういった部分が覚えられたっていうのが大きかったですね。
将棋のゲームの中で自分はどういう事を盤の上で表現出来るんだろうか、どういうものを目指したら良いんだろうかっていうのを自分で考えるっていうのがすごく面白くなりましたね。
アマチュアの頃は大会に何度か出場したんですけれど、本当に出ては負けって感じだったんですね。
自分ではわりとこうそろそろ勝てるんじゃないかっていうちょっとした自信を持って出場しているのに、もう全く勝てないという感じだったので、まぁその辺はなんでだろうってずっと思ってましたし、また将棋の内容でも、「うっかり」っていうんでしょうかね?お互いにうっかりしていてどっちが先に気がつくかっていう勝負だったんですけど、だいたい相手の人が先にそれに気がついて私がそのあと失敗に気がついて、はぁ〜がっくり…ていう感じでしたね。
―――あの頃の自分があるから今があるのだと思います。
矢内理絵子のココロの旅とは?
また新たな気持ちで頑張りたいと思います。
2009年12月29日(火)
ゲスト
あがた森魚
1948年北海道に生まれる。
1972年「赤色エレジー」でデビュー。20世紀の大衆文化を彷彿とさせる幻想的で架空感に満ちた作品世界を音楽、映画を中心に展開。近作アルバムには、初のベスト盤となる「20世紀漂流記」(2001年)、「佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど」(2001年)、「タルホロジー」(2007年)などがある。
自身による監督作品には「僕は天使ぢゃないよ」(1974年)、「オートバイ少女」(1994年)、「港のロキシー」(1999年)の3本がある。
2008年には還暦を迎え全国60か所あまりのツアー「あがた森魚 惑星漂流60周年!」を展開した。さらにその模様を追いかけたドキュメンタリー映画「あがた森魚 ややデラックス」が全国で順次公開中(来春には京都シネマにて公開予定)。
- 1948年
- 北海道に生まれる
- 1969年
- 鈴木慶一らと出会い、音楽活動を始める
- 1970年
- 自主制作LP「畜音盤」を鈴木慶一、細野晴臣らと録音
- 1971年
- 第2回全日本フォーク・ジャンボリー(中津川)にて「赤色エレジー」を歌う
- 1972年
- シングル「赤色エレジー/ハートのクイーン」でメジャーデビュー
- 1974年
- 初監督作品35mm劇映画「僕は天使ぢゃないよ」を完成
- 1981年
- <ヴァージンVS>結成 A児を名乗る
LP「ヴァージンVSヴァージン」リリース
- 1987年
- LP/CD「バンドネオンの豹(ジャガー)」リリース
- 1990年
- <雷蔵>結成
- 2001年
- 初のベスト盤「20世紀漂流記」
アルバム「佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど」リリース
- 2008年
- 還暦を迎えライブツアー「惑星漂流60周年!」を全国で展開
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『岐阜県 中津川市 上野』
デビューを掴んだ運命の地
思い出の場所
椛の湖畔
あがたが出演した中津川フォークジャンボリーが開催されている場所
椛の湖オートキャンプ場
岐阜県中津川市上野589-17
TEL:0573-75-3250
あがた森魚のココロの友
『三浦光紀』
恩人
当時あがたを発掘した音楽ディレクター
その他、撮影で訪れた場所
『居酒屋 鶴八』
愛知県名古屋市中村区椿町15-5 山岡ビル1〜3F
TEL:052-451-2041
創業35年のこの店では新鮮な刺身や魚料理、伝統の名古屋名物料理を楽しめる。
O.Aに入らなかったエピソード
「高校時代の衝撃」
もうねー、わりとボケッとしてた。だから、1965年だね、俺が高校2年の時にポップスばっかり聴いてた、深夜放送とか。ボブ・ディランを聴いた時にだからショックだった。そういうポップシーンがいなかったんだな。
歌手の前は…芥川龍之介になりたいなぁって、文学青年になりたいなぁって思ってたんだよ、俺は。
なんだろうね、なんかメッセージしたかったんじゃないの。なんかメッセージしたいし、なんか文学的なことをやりたかったんだ。
芥川龍之介みたいな文学的な青年になりたい!あれがかっこいい!ってずっと思ってたんだよ、俺は。
ひょっとしたら絵を描いたりお芝居したりすることでも良かったのかもしれない。
でもあるとき、1965年の夏に函館の家でラジオを聴いてたらボブ・ディランがかかったわけだね。
ボブ・ディラン聴いて「これなら俺も出来るかな」。
ポップス聴いてた時は「俺はもう絶対音楽なんか才能的にもやる人間じゃない」と思ってたけど、ボブ・ディランの歌っていうのは、とにかく自分が思っていることを原稿用紙に活字に書くようなことを歌にして歌っちゃってるなと。これすごいぞと。これ歌じゃない、文学じゃんと。歌うメッセージじゃんと思ったのね。だから衝撃だった。
ビートルズやストーンズよりもこっちの方がロックだな、と俺は思った。だから「よし、俺もこれからはこれを始めよう」と。それからますます勉強に身が入らなくなり、もう学校行ってもさ、ボブ・ディランの音楽が頭の中グルグルグルグル回っちゃってさ、もう授業どころじゃないもんな。
1965年の夏に初めて聴いて衝撃を受けた曲は「ライク・ア・ローリング・ストーン」。これ6分あるんだよ。6分でこれも非常に単純なコードを繰り返し繰り返しメッセージするような歌でね、これは当時24歳の白人の若者の歌、そして歌声には聞こえなかった。
黒人のブルースシンガーが歌ってるんじゃないかなって思うくらい、渋いというか渋いんだけど、そのサウンドのグルーヴ、ノリ、彼の歌声、混沌としていてかっこ良かった。だから「こういうことやりたい!」って俺は思っちゃったね。
―――あがたの教科書はボブ・ディランである。
あがた森魚のココロの旅とは?
あがた森魚がスタートした、今日はその現場検証出来ましたからね。
ありがとうございました。
2009年12月22日(火)
ゲスト
鈴木絵美子
1981年、埼玉県に生まれる。
1991年スイミングクラブ「アテナアクアメイツ」から「東京シンクロクラブ」 へ移籍。1998年国際大会USオープンに出場したのを皮切りに、各国際大会で数々の功績を残す。初出場のアテネオリンピックでは銀メダル(チーム)を獲得。北京オリンピックでは正式種目となって以降すべての大会でメダルを獲得してきた“日本シンクロ”のプレッシャーにも負けず、銅メダル(デュエット)を獲得する。世界に通用する脚技が武器といわれ、長くスラリとした足をムチのようにしならせ自由自在に動かすスピンは世界一と評される。北京オリンピック後の2008年9月現役を引退。その後、シンクロをはじめスポーツの楽しさを伝える活動を中心に活躍している。
- 1981年
- 埼玉県に生まれる
- 1998年
- 国際大会USオープン デュエット2位・ソロ3位(東京シンクロ代表)
- 1999年
- 日本選手権 チーム2位
国際大会USオープン チーム1位(ナショナルジュニア代表)
- 2000年
- 国際大会ローマオープン チーム2位(ナショナルBチーム代表)
- 2001年
- 世界選手権 チーム2位(ナショナルAチーム代表)
- 2002年
- 国際大会ローマオープン チーム1位(ナショナルAチーム代表)
- 2004年
- アテネオリンピック チーム2位
- 2006年
- 国際大会ローマオープン ソロ2位・デュエット1位
- 2007年
- 世界選手権デュエットテクニカルルーティン 3位
世界選手権デュエットフリールーティン 3位
- 2008年
- 北京オリンピック デュエット3位・チーム5位
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『埼玉県 さいたま市 中央区』
シンクロ人生スタートの地
思い出の場所
アテナアクアメイツ
シンクロに励んだ水泳教室
埼玉県さいたま市中央区鈴谷3-1-25
TEL:048-855-3372
鈴木絵美子のココロの友
『小村恵里佳、松村亜矢子』
友人
その他、撮影で訪れた場所
『居酒屋 路地裏』
東京都港区港南2-2-4
TEL:03-3450-3030
創業22年。その名の通り細い路地の先にある隠れ家のようなお店。
激辛の牛すじ煮込みはこの店の看板メニューで鈴木さん達もその味を堪能していました。
O.Aに入らなかったエピソード
「もう1度だけ…」
引退を考えていたけれど、でも続けようと思ったのは、コーチの「今経験したアテネオリンピックとは違うオリンピックになるよ」って言われたのがきっかけですね。
すごくアテネまでの4年間が辛くて、もう1回この4年間を続けるのは無理かなと思ったりもしたんですけど、開催国が北京というのもあって、発展途上じゃないですけどそういう国でやることも素敵なことだと思うし、自分たちの年代が上になるので、引っ張っていけるというですかね、今までの経験を生かしながら自分の色に出来るというのを聞いて、それで続けようと思ったのがきっかけですね。
代表に選ばれて、2人もいるっていうのですかね、アテネオリンピックを終えて次の代表選考会に残ってメンバーに選ばれたのが、私と小村さんと松村さんもいたというか、ジュニア以来チームを組むわけですから、すごい楽しみで、彼女たちともう1回世界の舞台で戦えるんだと思うとすごく楽しみがありました。
日の丸を背負うというか、伝統が、歴代の先輩たちがすごい成績を残されてきたシンクロだったので、その後に自分たちが続かなくてはいけないということはすごくプレッシャーになりましたけど、私がキャプテンをやらせてもらってチームのキャプテンを小村がやって、そのサブとして松村がやってくれることは、話し合うのも3人ですし、チームをどういう風にしていこうというのもいつも相談していた仲だったので、それをなんか仲いいだけでつるむとかそういうんじゃなくて、昔は仲良しこよしでやってたんですけど、それがチームの為に何をしなくちゃいけないかというのを本当に真剣に話し合う時間が多くなってきたのがこの3人ですね。
気心知れたじゃないですけど、すぐに彼女たちの顔色見たら何を思っているとか、そういうのを思ってもらえるような環境を作っていってくれることで、自分たちもデュエットしながらチームにすんなり入ることができたし、自分たちがデュエットをやらせてもらっているときは、本当に彼女ら2人にチームを任せて安心してデュエットをやらせてもらうことができました。
―――メダルは2つだけしかないですけど、
本当にオリンピックに臨んだ9人のメダルだなって今でも私は思ってます。
鈴木絵美子のココロの旅とは?
心がシンクロしている仲間に出会えたことは
本当に嬉しいですね。
2009年12月15日(火)
ゲスト
小嶋敬二
1969年、石川県に生まれる。
競輪界一ともいわれる太もも周り74pの強靭な体の持ち主。金沢高等学校在学時から自転車競技で数々の成績を収め、卒業後はソウルオリンピックを目指して日本大学に進学する。在学中の出場はかなわなかったが、1992年のバルセロナオリンピックでは1000mタイムトライアル、スプリントの2種目出場を果たした。その実績を生かし、1994年プロ競輪選手として初出走。
1990年のアマチュア時代を含め、1995年、96年、97年世界選手権自転車競技大会に4回出場を果たす。2003年高松宮記念杯、2005年寛仁親王杯をはじめ数多くのタイトルを獲得。2008年にはファン投票1位選手に選出され、2009年5月には通算500勝を達成。40歳を迎える現在もなお競輪界を代表する選手の一人として活躍が期待されている。
- 1969年
- 石川県に生まれる
- 1990年
- 世界選手権出場
- 1992年
- バルセロナ五輪スプリント出場・1000mタイムトライアル 10位
- 1994年
- プロ競輪選手として初出走
第10回ルーキーチャンピオンレース 優勝
- 2002年
- ふるさとダービーにて4日連続1位となる完全優勝を果たす
- 2003年
- 第54回高松宮記念杯競輪 優勝
- 2007年
- 東西王座戦にて3日連続1位となる完全優勝を果たす
第58回高松宮記念杯競輪 優勝
第16回寛仁親王杯 優勝
- 2009年
- 通算500勝を達成する
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『静岡県 伊豆市 大野』
競輪選手としての原点になった場所
思い出の場所
日本競輪学校
10代の頃から練習していたグラウンド
小嶋敬二のココロの友
『宮地一夫』
恩師
その他、撮影で訪れた場所
『安兵衛 伊豆修善寺店』
静岡県伊豆市修善寺868-1
TEL:0558-72-0917
伊豆の山、川、海の幸をいかし、春は山菜、夏は天然鮎、冬はズガニなどの季節料理が味わえる。
自宅にある生け簀の中にズガニを放していて、1年中ズガニ料理を提供します。
O.Aに入らなかったエピソード
「ゆめ ユメ 夢」
僕が競輪を知ったのはオリンピックなんです。
オリンピックには自転車競技というのがあって「自転車でオリンピックに行けるんだ」って思いました。
実家がスポーツ店というのがあって、スポーツの中の最高峰がオリンピックだって僕が勝手に思ってたんで…。
オリンピックに出ることが親孝行だし、やっぱり自転車競技をやること自体お金がたくさん掛かるので…。
恩返しのためにオリンピックに出たいと思いました。
まず大学1年生の時に、ソウルオリンピックを怪我で失敗して、それから大学の3、4年間、頑張ったんですけど、やっぱりオリンピックに出れなかったということだけが悔いに残りました。
その時、国内大会は全部穫ったんですよ。
でも、オリンピックに出ていないということだけが心残りで、やっぱり親に親孝行したいというのはあって。
―――で、やっとバルセロナオリンピックに出たんですよ。
夢は叶うためにある。
あのときは、本当にうれしかったですね。
小嶋敬二のココロの旅とは?
また練習する元気がでましたね。
2009年12月8日(火)
ゲスト
上松美香
1982年、長野県に生まれる。
1994年、アルパ(スペイン語で「ハープ(竪琴)」の意)の奏者であった母親の元で“アルパ”を習い始める。
1999年第2回全日本アルパコンクールにて優勝。
2000年アルバム「INOCENCIA」でデビューする。アルバム4枚をリリースした後、2003年にリリース活動を一時休止。アルパの本場であるアイルランド、パラグアイなどに渡航し作曲活動を行う。2004年7月、活動を再開。
以降6枚のアルバムをリリース。最新作はカーペンターズの名曲をアルパで奏でたアルバム「青春の輝き〜上松美香 plays カーペンターズ」。
CDリリースだけでなくコンサート活動や作曲家としてなど人気・実力ともに日本を代表するアルパ奏者として活躍を続けている。
- 1982年
- 長野県に生まれる
- 1999年
- 第2回全日本アルパコンクール優勝
- 2000年
- 初のソロアルバム「INOCENCIA」リリース
- 2003年
- およそ1年間活動を休止する
- 2004年
- 自ら音楽プロデュースを行った「第一回アルパグランフェスティバル」で活動を再開する
- 2005年
- アルバム「mika AGEMATSU」リリース
- 2006年
- アニメソングのカバーアルバム「ANIPA」リリース
- 2009年
- アルバム「上松美香ベスト Arco ir is〜虹〜」をリリース
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『長野県 安曇野市 穂高町』
アルパに出会い練習した場所
思い出の場所
上松 実家
音楽と愛する家族と暮らした場所
上松美香のココロの友
『上松健一』
父
O.Aに入らなかったエピソード
「上松を救った家族からの言葉」
高校に進学するときに「どのような夢を持っていますか?」と書かれた質問用紙がきて、それを書くときに、真剣に悩みました。
その時は結構悩んで、でもやっぱり自分は、これからアルパを弾いていくのかなぁって思って、軽い気持ちではあったのですが「アルパ」も演奏できて、学校も「両立」できる学校を志望しました。
中学卒業して、東京の高校に進学したんですけど、自然豊かな場所で生まれ育ったので凄く環境にショックを受けました。
地元にいたころは、太陽がビルの隙間からしか見えないなんて考えられなかった。
当時のクラスの皆が、とても輝いて見えました。
多分、自分はその時そのように見えてしまっただけだと思いますけど。
当時、ストレスで、ブクブクに太ってしまいました。
それを見ていた母が、「これは何かおかしい」と、相談にのってくれました。
そんなに悩んでいるんだったら、一回東京離れて思い切ってパラグアイに長いこと行ってみようかって言ってくれたんです。
―――家族がいたから…。
あのときは、本当に忘れる事が出来ないですね。
上松美香のココロの旅とは?
大好きだなぁってことを再確認できた旅でしたね。
2009年12月1日(火)
ゲスト
勅使川原郁恵
1978年、岐阜県に生まれる。
3歳からスケートを始め、中学2年生でオリンピック強化指定選手となる。
1996年世界ジュニア選手権で総合1位になり一躍日本のトップスケーターとなる。1993年から2004年まで世界選手権11回出場。
1998年長野五輪、2002年ソルトレイクシティー五輪、2006年トリノ五輪とオリンピックに3回出場を果たす。その後現役を引退。スポーツコメンテーターとしてだけでなく、ウォーキング指導員の資格を取得しその魅力を伝える活動を行うなど幅広く活躍している。
- 1978年
- 岐阜県に生まれる
- 1993年
- アジア選手権3000m 2位
- 1995年
- アジア選手権3000m 3位
世界ジュニア選手権 総合3位
- 1996年
- アジア選手権 総合3位
世界ジュニア選手権 総合1位
- 1998年
- 長野オリンピック出場
3000mリレー 4位、1000m 5位、500m 6位
- 2002年
- ソルトレイクシティーオリンピック出場 3000mリレー 4位
- 2006年
- トリノオリンピック出場
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『岐阜県 岐阜市 金華山』
スケート人生に欠かせない場所
思い出の場所
金華山
スケートのトレーニングで登っていた場所
金華山ロープウェー
岐阜県岐阜市千畳敷下257
TEL:058-262-6784
勅使川原郁恵のココロの友
『勅使川原透』
父
O.Aに入らなかったエピソード
「勅使川原を支えた父の一言」
大体父親とよく金華山に登っていました。
登っているときは黙々と何も言わずに登るときもありましたし、それに普通の日常的な会話ですね。
特にスケートにどうこうという話は全然無くて、「学校ではどうだ?」みたいな感じの普通の会話をしてた思い出があります。
お父さんはよく私に「郁恵、スケート楽しいか?」なんて言って、よく聞くんですよ。
で、私が「楽しいよ」って言うとすごく安心して「そうかそうか、じゃぁ続けなさい」って言うんですけど、多分父親は私が「楽しくない!辛い」とか「苦しい」とかって言ったらすぐに「辞めなさい」って言ったと思うんですよ。
だけど私が引退を決意するまでずっと、楽しいと言い続けたので、見守っててくれましたね。
私がスランプになったときとか、悩んでる顔をしたときとかにポッと「楽しいか?郁恵、楽しいか?」って聞いてくれたので。
やっぱり分かるんでしょうね、父親は一番辛い時期を。そういった時によく聞いてくれました。
1人で悩んでいるときとかも、「あっ、一人じゃなくて、両親もしっかり自分の事を見ててくれてるんだなぁ」っていうのが分かったんで、なんかこう、「もう1度頑張ろう」とか「私は1人じゃないんだ」って気持ちになれたので、それは本当に助かりました。
トレーニングは辛いって思うと本当に多分嫌になっちゃうので、いつもは父親から「前向きな気持ちで辛いと思うな。楽しんだら絶対結果も付いて来るから」って言っていたので、楽しんでやってました。
お父さんの教え方は優しい感じでしたね。
怒るって感じは全く無くて、本当にそのまま「いいよ、いいよ、上手く出来てるよ」って感じで、選手としても、楽しんで出来る様な感じで教えてくれました。
―――やっぱり分かるんでしょうね、父親は子供の1番つらい時期を。
だから「大丈夫か?」って言葉は今も印象に残ってます。
勅使川原郁恵のココロの旅とは?
やっぱり一番落ち着ける場所だなぁって思いました。
2009年11月24日(火)
ゲスト
中村卓哉
1975年、東京都に生まれる。
10歳の頃沖縄のケラマ諸島でダイビングと出会い、神秘的な海中世界の虜となる。
日本大学芸術学部卒業後、父親で水中写真家の中村征夫氏に弟子入り。撮影アシスタントを務める傍ら、新聞、雑誌などの撮影を行う。
その後、ダイビングインストラクターとして水中撮影の技術を伝えながら作品を撮り続ける。活動の場を広げるため2001年に沖縄に移住。
現在は東京に拠点をおき、テレビやラジオ、イベントへの出演を通じて、沖縄の海をはじめとする環境問題についても取り組んでいる。
- 1975年
- 東京都に生まれる
- 1985年
- 沖縄ケラマ諸島でダイビングと出会う
- 1998年
- 父親で水中写真家の中村征夫氏に弟子入り
- 2001年
- 沖縄へ移住
- 2006年
- オリンパスギャラリーにて親子写真展開催
- 2007年
- 日経ナショナルジオグラフィック年間広告賞の審査員を務める
- 2008年
- 代官山・春花祭にてサンゴの保護再生資金を集める写真展を開催
国連平和大使 ジェーン・グドール博士の来日イベントに出演
- 2009年
- 東京を拠点とし水中カメラマンとして活動中
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『沖縄県 北谷町』
プロとしての自信を付けてくれた場所
思い出の場所
砂辺海岸
沖縄に住んでいた頃、毎日潜った場所
沖縄県中頭郡北谷町宮城
中村卓哉のココロの友
『中村征夫』
父
その他、撮影で訪れた場所
『古都首里』
東京都世田谷区太子堂2-24-6 ドミー三軒茶屋B1F
TEL:03-5431-3275
沖縄料理の定番から、珍しい宮廷料理まで、沖縄の食を幅広く楽しめるお店
O.Aに入らなかったエピソード
「再出発の地、沖縄で…」
全くあてもなく、沖縄に荷物を送ってアパートをすぐ借りて、最初は不安だらけでしたね。
仕事も全くなかった。夜はアルバイト、昼はダイビングで、「これでいいのかなぁ」とか思ったんですけど、それ以上に「撮れる喜び」っていうのがウワァーっと湧いてきまして。
そう考えるとハッピーだったんですよね。
生活はもう苦しい苦しい…。もう本当に食べる事が出来なくて辛かったですね。
寝る暇は、1日そうですねー2時間とか。
夜は毎日アルバイト、昼は毎日ダイビングで、バイト前の2時間くらいで寝る、そんな生活です。
でも自分的には全く辛くないんですね、不思議と。
撮れる喜びだけ、それが4年ぐらい。幸せでしたよ。
なんせ今まで3年間父親の事務所で我慢して来たんですよ。
雑用ばかりでカメラを撮れない欲求をずーっとね、発散したくて毎日海に潜って撮れるんですから。
もうそんな、苦しさなんて全くなかったです。
10歳の時に初めて見た沖縄の水中のそのままのイメージを毎日毎日撮り続けて、ようやくその時に「自分の夢が叶ったかなぁ」と、そんな思いでした。
プロとして1本立ちするにはやっぱり資金が無いといけないし、これ(水中カメラマン)で金稼ぎたかったですよ。
でもそれ以上にまず潜れる喜びっていうのが全面に出てきましたよ。
もう「どうやって稼ごう」というよりもまず「潜ろう!写真を撮ろう!」それだけです。
それで父親に「自分沖縄に来たんだよ」って知らせたのが、沖縄に移住して3ヶ月目くらいですかね。
で、電話で「今、沖縄に住んでるんだよ」って。
「あぁ、そうか」ってそれだけでしたね。
―――中村の独り立ちを後押ししてくれた沖縄の美ら海は
今も中村の思い出と共にそこにある。
中村卓哉のココロの旅とは?
これからも原点を忘れずに頑張ろうと思いましたね。
2009年11月17日(火)
ゲスト
畑山隆則
1975年、青森県に生まれる。
15歳まで、野球に熱中する。16歳の頃、TVで中継されていたボクシングの世界王座奪取を見た事がきっかけで、ボクシングを始める。18歳でプロボクサーとしてデビュー後は11連続KO勝ち(史上3番目)を含む23戦無敗で世界王座を獲得。日本人で4人目の世界2階級制覇者。現在、格闘技中継の解説やバラエティなど様々な分野で活躍中。
- 1975年
- 青森県に生まれる
- 1991年
- ボクシングの世界王者を夢見て上京
- 1993年
- 東日本ジュニアライト級新人王トーナメント予選でデビュー戦を飾る
- 1998年
- WBA世界スーパーフェザー級タイトル獲得
- 1999年
- 引退
- 2000年
- 現役復帰
WBA世界ライト級タイトル獲得
- 2002年
- 引退後はタレント活動や格闘技中継の解説等で活躍中
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『東京都 豊島区 池袋本町』
本当の意味でボクサーになれた場所
思い出の場所
池袋本町公園
ボクシングの練習に明け暮れた場所
東京都豊島区池袋本町1-27-1
畑山隆則のココロの友
『嶋田雄大』
恩人
現役最年長ボクサー
その他、撮影で訪れた場所
『全席完全個室 竹取夢御殿 池袋店』
東京都豊島区東池袋1-23-9 近代グループビルディング10号館4F
TEL:03-5992-3166
全席完全個室で、誰でも気兼ねなくゆっくり楽しめる空間作りが魅力のお店。
獲れたてのお刺身が、特にお客様に大人気!
O.Aに入らなかったエピソード
「確固たる決心」
小さい頃はずっと野球をやってました。
小学校3年生の頃に、プロ野球選手になることを決め、小・中学校とエースで4番をやっていたんですけど、高校も地元の高校に特待生として入って、
後は甲子園に行ってプロになるだけだって思っていたのですが、いろいろとありまして、高校の野球部を一ヶ月で辞めました。
その頃に辰吉選手の試合を見てこんな凄い人がいるのかと思い、
自分もボクシングを始めました。
そのときは、俺がボクシング選手にならなかったら誰がなるんだと思ってましたね。
僕は小さい頃から運動神経が良くて、そこから根拠のない自信が湧いてきたのだと思います。
そこでボクシングをやろうとしたのですが、地元の青森にはボクシングジムがありませんでした。
高校を卒業してからでも遅くないとは思いましたが、スポーツはやはり早く始めた方が良いという事で高校を投げ出して、ここに来ました。
―――その頃の思い、それが…
世界チャンピオンになりたい。
それだけでしたね。
畑山隆則のココロの旅とは?
初心忘るべからず。
2009年11月10日(火)
ゲスト
黒木知宏
1973年、宮崎県に生まれる。
愛称「ジョニー」でロッテファンならずとも多くの野球ファンに親しまれている。1995年千葉ロッテマリーンズ入団。最多勝、最優秀勝率など数々の賞を獲得する。リーグ、そして球界を代表する投手となり日本代表としてシドニー五輪にも出場。2001年から怪我に悩まされ続ける。2005年に執念の復帰を果たし、2勝をあげチームも31年ぶりの日本一を達成する。しかし、2007年戦力外通告を受け、惜しまれながらも同年12月に現役引退を発表。現在、野球解説を勤める傍ら、「ジョニープロジェクト」を立ち上げ、自らを育ててくれた「野球」の更なる発展、普及活動に力を入れている。
- 1973年
- 宮崎県に生まれる
- 1995年
- 社会人野球部 新王子製紙より千葉ロッテマリーンズへ入団
- 1998年
- オールスター出場
最多勝・最優秀勝率受賞
- 1999年
- オールスター出場
- 2000年
- 9月月間MVP受賞、シドニー五輪日本代表
- 2001年
- 5月月間MVP受賞
- 2007年
- 現役引退
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『愛知県 春日井市 王子町』
プロへの階段を開いた地
思い出の場所
王子製紙グラウンド
高校卒業後就職し野球をした場所
王子製紙春日井工場
愛知県春日井市王子町一番地
TEL:0568-81-1111
黒木知宏のココロの友
『安堂誠』
恩人
黒木を熱烈に勧誘した
その他、撮影で訪れた場所
『はなの舞 名古屋西店』
愛知県名古屋市中村区椿町6-3 太陽ビル2-3F
TEL:052-459-3291
活きのいい鮮魚と豊富なメニューが揃う居酒屋。
美味しいお酒とともに楽しく味わってください。
O.Aに入らなかったエピソード
「ジョニー黒木誕生秘話」
人の話も聞かない…若造なんで。よくミーティング中なんかは居眠りとかしてたんですよ。
居眠りをしてて、頭を丸めて来いと。頭を丸めて来いと言われたんですよ。それ(居眠り)常習だったんで。
で、その時の髪型ですね。髪型が山本ジョージさんに似てたらしくて、最初は「ジョージ」と呼ばれてたんです。ただある時1つ下の後輩が「ジョニー」と言い始めて、それを僕も真に受けて、じゃあ僕ジョニーで行こうと。っていうところから入ったんですね。
特に「これだ!」っていう理由は無いんですけど。でもまぁ、その「ジョニー」っていうニックネームが無ければ、プロ野球選手になった時に、違うニックネームだったら今の僕はたぶん無いと思います。ある意味いいアピールは出来たのかなぁと。言った手前やっぱやらないといけないし。
―――「ジョニー黒木」というニックネームの原点もまた、この場所にあった。
黒木知宏のココロの旅とは?
癒されましたね。今度はもっとゆっくり時間を掛けて
帰って来たいなぁと思います。
2009年11月3日(火)
ゲスト
尾川智子
1978年、愛知県に生まれる。
早稲田大学理工学部在学中、登山などを行うワンダーフォーゲル部に所属。その仲間を通じクライミングを始める。在学中の2000年、国体山岳競技に誘われたことがきっかけで、本格的にクライマーの道に進む。日本人女性としては初のプロクライマーとして活動し、2003年、2006年には「Asian X-games」で優勝。
数々の大会に出場しつつ、高難度の岩に挑戦中。
2008年4月には、日本人女性初となる難度V12を達成し世界のトップと肩を並べる。
- 1978年
- 愛知県に生まれる
- 2000年
- 「富山国体」山岳競技総合2位
- 2002年
- 「UIAA InterNational Event FRANCE」19位
「UIAA World cup ITALY」12位
- 2003年
- 「Asian X-games」優勝
「世界選手権 FRANCE」18位
- 2004年
- 「UIAA InterNational Event FRANCE」13位
「UIAA World cup ITALY」11位
「UIAA World cup CHINA」10位
- 2005年
- 「SENDFEST(全米大会)Salt Lake」優勝
- 2006年
- 「Asian X-games」優勝
- 2007年
- 「ノースフェイスカップ(韓国)」優勝
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『富山県 南砺市立 野原東』
プロを目指すきっかけとなった場所
思い出の場所
桜ヶ池クライミングセンター
大学3年生の時 初めて大会に出場した場所
富山県南砺市立野原東1511
TEL:0763-62-8123
尾川智子のココロの友
『岡田雅子(旧姓 大西)』
友人
尾川と共に国体に出場した仲間
その他、撮影で訪れた場所
『粋正』
富山県南砺市福野772
TEL:0763-22-8787
アットホームな雰囲気漂うお店は、女性にも大人気!
新鮮な海の幸のお料理が大変美味しく、あなたも常連になってしまうこと間違いなし!気の良いご主人と、気さくな女将が、お客様をお待ちしております!
O.Aに入らなかったエピソード
「友人からの一言で…」
小さい頃はずっと『宇宙飛行士』になりたいと思ってました。
私が小学生の時に、ちょうど毛利さんとか向井さんが宇宙に行き始めて、それでちょっと子供心に興味が出ました。
それからすごく宇宙に憧れを抱いて、どうしたら宇宙に近づけるかなぁと考えてたら、「高い所に登ったら近づける!」って思って…。
それで、中学生のときに、日本で一番高い山「富士山」に登りました。
その時は、「ちょっと宇宙に近づいた!」って思いましたね。
それで大学で山岳部に入りました。
そしたら、同じ大学の大西さんに「一緒に国体に出場しよう」と言われて…。
最初はお断りをする雰囲気を醸し出していました。
なにしろ、初心者だったもんで…。
でも、大西さんの熱意は凄まじく、出場することに決めました(笑)
練習は大変でしたね。
夜中に東京をでて、夜中にここ(桜ヶ池クライミングセンター)に着いて、朝から晩まで一日中って感じで…。
はじめは大西さんも、私が素人だと分かっていたので、国体で準優勝を取るなんて、想像もしてなかったそうです。
国体で準優勝したときに、大西さんが私に言ったんです。
「これだけ短期間で上手になったんだから、このまま続けたら、日本を背負って立つクライマーになるよ」と。
―――何気ない一言が、時に、忘れられない言葉になる。
大西さんの言葉が今でも自分を支えてくれてますね。
本人は覚えてるか分からないですけど(笑)
尾川智子のココロの旅とは?
すごくパワーを貰えた気がします。
2009年10月27日(火)
ゲスト
古谷徹
1953年、神奈川県に生まれる。
中学一年生の時にアニメ声優としてデビュー。中学三年生の時にアニメ「巨人の星」の星 飛雄馬役を射止め、注目を集める。
その後、「機動戦士ガンダム」のアムロ・レイ役、「ドラゴンボール」のヤムチャ役、「聖闘士星矢」のペガサス星矢役、「きまぐれオレンジ☆ロード」の春日恭介役など数々のTVアニメの主人公を演じる。現在は、テレビ番組のナレーションや海外イベントなどでも活躍中の日本を代表する声優の一人である。
- 1953年
- 神奈川県に生まれる
- 1966年
- アニメ「海賊王子」のキッド役で声優デビュー
- 1968年
- アニメ「巨人の星」の星 飛雄馬役
- 1979年
- アニメ「機動戦士ガンダム」アムロ・レイ役
- 1986年
- アニメ「ドラゴンボール」ヤムチャ役
アニメ「聖闘士星矢」ペガサス星矢役
- 1987年
- アニメ「きまぐれオレンジ☆ロード」春日恭介役
- 2008年
- アニメ「キャシャーンSins」キャシャーン役
ミニアルバム「HEROES 〜to my treasure〜」リリース
- 2009年
- 著書「ヒーローの声 飛雄馬とアムロと僕の声優人生」発売
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『東京都 新宿区』
プロとして第一歩を踏み出した場所
思い出の場所
整音スタジオ
機動戦士ガンダムの収録で通った場所
古谷徹のココロの友
『富野由悠季』
監督
機動戦士ガンダムシリーズの原作・総監督を務める
その他、撮影で訪れた場所
『関西酒場 らくだば』
東京都新宿区新宿1-23-16 第2得丸ビル1F
TEL:03-6457-4500
浪速の「関西ソウルフード」と美味しいお酒が楽しめる落ち着いた雰囲気のお店。長時間ことこと炊いたどて焼きはお店の人気メニューの一つです。
O.Aに入らなかったエピソード
「アムロになった瞬間」
みんなここに座って。僕はいつもだいたい一番端っこに座って。
それでなぜかわからないですけどこっち側が連邦軍の声優たちが座って、あの入り口の方にシャアをやっていた池田秀一さんが座って、そこがジオン軍の声優たちっていう風に分かれてましたね。
やっぱりだいたい自分たちで会話するので、ホワイトベースのメンバーはみんなこちらに…っていう感じでしたね。
収録中、とにかく、僕は左手に台本を持って右手にボールペンとかを持って、なるべくペーパーノイズを立てないようにめくりながら自分のキャラクターが口をパッと開いた瞬間に自分のセリフをしゃべるっていうのが1つのルールで。
ノイズが入らないようにしなくちゃいけないし、でも戦闘シーンなんかではつい体が動いてしまう、そこが難しいところですよね。
あるとき僕は、アムロはニュータイプだったので、おでこにピカッと稲妻が光った瞬間に、目に見えてない所に来た敵の気配を感じて振り向き様「そこか!」と言ってビームライフルで打ったりするシーンがあるんですけど、そのニュータイプの感覚っていうのをどう表現すればいいか、僕は悩んで、ある時にちょっとトライしたんですけど、映像を見ないでずっと下向いてて「今だ!」って自分が感じた時に「そこか!!」って顔上げて言ったらピッタシ合ったんですよ。
「あ、今の感覚だ」って思えて、「これでニュータイプOKだな」って思いました。
なかなかそう上手く行く事はその後無かったんですけどね。
―――あの瞬間、古谷は完璧なアムロ・レイになった…。
古谷徹のココロの旅とは?
初心に返る事が出来たっていう感覚でしたね。
2009年10月20日(火)
ゲスト
梶原しげる
1950年、神奈川県に生まれる。
早稲田大学から文化放送にアナウンサーとして入社。1992年フリーアナウンサーとなる。また、演歌を英語に訳して歌う、日本でただ一人のイングリッシュ演歌歌手でもある。近著に「雑談力」(日本実業出版)、「プロのしゃべりのテクニック」(日経BP)など著書も多数。現在は「梶原しげるのNEXT ONE」(JFN系列)をはじめテレビ、ラジオにとどまらず「シニア産業カウンセラー」や「日本語検定審議委員」として多方面でも活躍中。
- 1950年
- 神奈川県に生まれる
- 1973年
- ラジオ局文化放送に入社
- 1991年
- ラジオ局文化放送を退職
- 1992年
- 「梶原放送局」を立ち上げフリーアナウンサーとなる
- 2000年
- 東京成徳大学大学院心理学研究科に進学
- 2003年
- 著作「口のきき方」を出版
- 2006年
- 東京成徳大学応用心理学部客員教授に就任
- 2007年
- アルバム「イングリッシュ演歌」がCD化される
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『神奈川県 横浜市 磯子区』
アナウンサーの原点となった地
思い出の場所
神奈川県立外語短期大学附属高等学校
高校時代に青春を謳歌した場所
神奈川県横浜市磯子区
梶原しげるのココロの友
『金子敏郎』
友人
高校時代のバンドメンバー
その他、撮影で訪れた場所
『酒処 玄や』
神奈川県横浜市南区中島町4-85
TEL:045-716-1810
建物は合掌造りのイメージであり、店内は和風の懐かしさあふれる雰囲気。天然物にこだわった魚料理や、自慢の手造り料理を堪能することのできるとてもアットホームな雰囲気の居酒屋です。
O.Aに入らなかったエピソード
「コミュニケーション力を養えた場所」
ちょうどこの学校に入った時は恥ずかしがりやだったんですよ。ちょっと何か言おうとすると顔が真っ赤になっちゃうような。
でもたまたまこの学校には進駐軍の奥様方がたくさん来て、英語の授業をやってくれたんですね。
そこで気づいたんです。外国人とだとアガらない自分に。英語の問いに対して英語で語る。そこには、きちんと人と喋れる自分がいたんです。
「俺もシャイなだけの人間ではない」と、目覚めさせてくれましたね、高校時代というのは。
自分に積極性があるということを発見できた場所です。英語の成績も中学校時代は、全く良くなかったのです。
ここでは、何が間違っていて間違っていないかを、アメリカの進駐軍の奥様方は教えてはくれません。学校専門の英語の先生ではないのですから。
ですが、間違いを指摘しない代わりに、間違いだらけの英語でもきちんと聞いてくれたんです。
私の下手な英語をきちんと受け止めてくれて、つまらないような話を嬉しそうに聞いてくれました。
人とのコミュニケーション力とかは、やはり、この時に養えたのかもしれませんね。
―――自分の道が拓けた。
あのアメリカ人のおばさま方が僕を育ててくれたような感じがしますね。
梶原しげるのココロの旅とは?
金子が僕にとっての最初のリスナーだったのかもしれませんね。
2009年10月13日(火)
ゲスト
岡田敦子
1976年、愛媛県に生まれる。
2004年、プロキックボクサーとしてデビューする。プロのキックボクシングのリングに上がりながら、スポーツインストラクターとしても活動する。
自ら「team RAPTURE KING」を結成し、複数のプロモーションのリングに登場している。2009年初代M-1(ムエタイ)女子ミニフライ級王者となった。
- 1976年
- 愛媛県松山市に生まれる
- 1988年
- 中学入学後なぎなたを始める
- 1998年
- 全日本なぎなた連盟三段、公認審判員の資格を取得
- 2001年
- 地元愛媛でキックボクシングを始める
- 2002年
- プロキックボクサーを目指し上京
- 2004年
- プロキックボクサーとしてデビュー
- 2009年
- 初代M-1女子ミニフライ級王者となる
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『愛媛県 松山市 三番町』
元気を与えてくれる故郷
思い出の場所
『ちいさな居酒屋 おかえりなさい』
格闘技を始めた時によく来ていた場所
愛媛県松山市三番町2-10-5 第1アークビル1F
TEL:089-934-4545
岡田敦子のココロの友
『西岡美央』
友人
中学校から大学まで共に長刀を学ぶ
O.Aに入らなかったエピソード
「私の目標」
当時アルバイトしながら格闘技を始めて、最初は趣味程度だったんですけど。
だんだんと本格的にやりたくなってきて、試合もやりたかったし、最強になりたかったんで、チャンピオンになりたいって思って、格闘技の世界でトップになる!という思いはだんだん芽生えてきました。
具体的には、やっぱりチャンピオンになりたかったですね。K-1に出たい!チャンピオンになりたい。その思いだけでした。
当時女性のK-1はないです。今でも確立されてなくて出来てないので。女子の格闘技でトップになって、自分が女子のK-1を作るくらいの気持ちだったんです。
当時の目標は、まだ自分もテレビとか雑誌で女子の格闘技を見ることも無かったので、これは絶対自分が強くなって試合に出て、勝って女子のK-1を作って、女子の格闘技を盛り上げようって、まだぜんぜん何も結果を出してない時にそういう思いがなぜかあり、「絶対チャンピオンになりたい」っていうのも少しずつ芽生えて来て、目標が定まってきました。
―――チャンピオンになりたかった…。
その高い目標が今の岡田敦子を作っている。
岡田敦子のココロの旅とは?
故郷があるのは本当にいいと思います。
2009年10月6日(火)
ゲスト
本田武史
1981年、福島県に生まれる。
史上最年少の14歳で出場した、全日本選手権で初優勝を果たす。
1998年には長野オリンピックに出場。
2002年ソルトレイクシティーオリンピックでは4位と健闘。
2006年からプロへ転向し、現在は世界最高峰のスターズ・オン・アイスやチャンピオンズ・オン・アイスショー等で活躍中。
また、関西大学でアシスタントコーチとして指導を行っている。
- 1981年
- 福島県に生まれる
- 1995年
- 全日本選手権 優勝
- 1996年
- 全日本選手権 優勝
- 1998年
- 長野オリンピック 出場
- 1999年
- 全日本選手権 優勝
- 2000年
- 全日本選手権 優勝
- 2002年
- 全日本選手権 優勝
世界選手権 銅メダル
- 2003年
- 世界選手権 銅メダル
四大陸選手権 優勝
冬季アジア大会 優勝
- 2004年
- 全日本選手権 優勝
- 2006年
- プロへ転向する
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『宮城県 仙台市 泉区』
世界への扉を開いた地
思い出の場所
『アイスリンク仙台』
実家の福島から通った場所
宮城県仙台市泉区高玉町9-2
TEL:022-371-0601
本田武史のココロの友
『長久保裕』
恩師
本田を小学生の頃より指導
O.Aに入らなかったエピソード
「毎週の目標」
実家が福島県郡山市で、最初兄がスピードスケートをやっていて、一緒にくっついて滑ってました。
初めはあまり滑ることが好きではなかったんです。
スピードスケートは自分には合ってないなって思っていて…。
その時、スケート場の真ん中でフィギュアスケートをやっている人を目にしてちょっと面白そうだなと。
それで先生を紹介してもらい、小学5年生の時から週二回ほど、新幹線で仙台に通ってました。学校に母親が迎えに来てくれて、新幹線で仙台へ。
でも段々と通うのって辛くなりますよね。毎週新幹線で移動なので…。
で、中学生の時に、(仙台に)移ろうかと。
アイスリンク仙台でスケートを習い始めたときは、同世代のレベルの高さに圧倒されましたね。
その当時、僕はシングルジャンプを跳べるレベルだったんですけど、ここに来たら同じ年齢の子がダブルを跳んでいたり、もうスピードも違うし、ショックでした。こんなに上手い人たちがいるんだって思いました。
悔しかったですね。年下の男の子よりも、自分のレベルが下だったので…。
もう全然ついて行けなかったです。
一気に一番上まで行くのは不可能だと思ったので、とにかく、自分より一つ上の選手を抜くことに必死でした。
とにかく、自分の近くの子たちと勝負しようと。
それが僕の、毎週の目標でした。
―――前だけを見ていた。
本当に負けず嫌いでしたね。
本田武史のココロの旅とは?
長久保先生との出会いが自分の人生の始まりだったかなと思います。