2010年8月31日(火)
ゲスト
佐藤信之
1972年、愛知県に生まれる。
中京大学附属中京高等学校卒業後、中央大学に進学。1995年、大学4年時の箱根駅伝では10区区間賞を獲得し同大学を復路優勝へと導いた。
その後、旭化成へ入社。宗茂、宗猛らの指導により日本を代表するマラソンランナーの一人となる。1998年福岡国際マラソンでは2時間8分48秒の自己最高タイムを記録し2位となる。1999年セビリア世界陸上男子マラソン代表に選出され、銅メダルを獲得。2000年シドニー五輪男子マラソン代表に選出される。2005年トヨタ紡織陸上部へ移籍。コーチを経たのち監督として後進の指導に当たっている。
- 1972年
- 愛知県に生まれる
- 1995年
- 世界ハーフマラソン 8位
- 1998年
- 福岡国際マラソン 2位
- 1999年
- 世界選手権マラソン 3位
- 2000年
- シドニー五輪マラソン出場
内
あなたのココロの故郷はどこですか?
『愛知県 名古屋市 昭和区』
マラソンランナーとしての原点の場所
思い出の場所
中京大学附属中京高等学校
3年間陸上に明け暮れた場所
佐藤信之のココロの友
川口孝志郎
恩人
その他、撮影で訪れた場所
『割烹家 満兆 豊田店』
愛知県豊田市西町5丁目29番地
TEL:0565-37-7772
旬の食材をふんだんに使った美味しい料理を純和風の落ち着いた佇まいの中味わうことができる。個室が主体で周りの席を気にすることなく過ごせる。
O.Aに入らなかったエピソード
「段々と陸上の魅力に惹かれていった」
川口先生だったら、オリンピック代表とか2時間6分代とかまで上手く導いてくれるって思ったのはですね、マラソンの経験があったっていう所もありますし、第一印象ですかね。
とにかく明るく元気な先生だったんですよ。
陸上やるんだったら自分のイメージとしては、サッカーのノリじゃないけど、黙々とやるっていうのもあるんですけど、出来れば楽しくやりたいなっていうのがあって、川口先生の所だったら楽しく出来るんじゃないかな、楽しく強くなれるんじゃないかなって思いまして。一か八か懸けてみようかなって気にはなったんですよね。
川口先生と一緒に走った時点で、陸上に傾きかけましたね。
それまではどちらかというとサッカーが7で、陸上が3だったところが逆転したかな。
その時川口先生と話してたのが、恐らく30分前後だと思うんですよね、その中で陸上の魅力とか色々聞いていく中で、段々とサッカーじゃなくても、陸上でもいいかなと。
自分がその時思ったのが、自分はサッカーが好きなのか、プロスポーツ選手に憧れてたのか、ってちょっと思って。
それで、サッカーだと団体スポーツで、自分が頑張れば何とか出来る世界ではないなと。11人揃わないと世界大会見えないなと。
陸上っていうのは、当時川口先生もおっしゃってたんですけど、自分で頑張った分返ってくる種目だよ、と。やった分が返ってくる所に面白さがあると。
そう考えた時に、世界は近いのかな、と。陸上だったら世界が近いのかな、と。それはでも誰にでも出来るような事では無いなって思ってて。
ひょっとしたら自分はその中に選ばれた1人なのかなとか、いい勘違いして(笑)で、やってみようかなって気になったんですよね。
でもその時に、即行きますとは言わなかったと思うんですよ。
一度帰って両親と相談しますって感じで別れたと思うんですよね、自分の心の中では7割陸上3割サッカーっていうところで。それより多かったかな。
ちょっと陸上の方の…親には陸上やりたいって告げようと思ってその席を離れましたね、親を説得しようと思って。
相談というよりは親を説得しようと思って。
でもあとやっぱり長男っていうがあったのと、教師になりたいっていう夢もあって。
教師になりたいっていうのを1番に考えた時にちょっとまだ迷う所がありましたね。おふくろは比較的、やりたい事やればいいっていう考えだったんですけど、親父が全く反対で。
子供の頃から教師になって欲しいと聞かされてましたし、自分自身も教師に憧れてた部分もあったので…家族会議が開かれましたね(笑)
でもやっぱり自分の中では(陸上をやる事に)ほぼ決定してたんで、なんとか親父の意見を振り切って強行突破した記憶がありますね。
それで1週間後先生にお会いした時に、お世話になります、みたいな事を言った記憶があります。
―――先生の言葉に後押しされて、陸上の道に進む事が出来ました。
佐藤信之のココロの旅とは?
自分の原点は名古屋の昭和区にあったんだなっていうのを改めて思いましたね。
2010年8月24日(火)
ゲスト
吉原知子
1970年、北海道に生まれる。
高校3年生で全日本代表となり、1992年バルセロナ、1996年アトランタ、2004年アテネとオリンピックに3度出場を果たす。
特にアテネ五輪世界最終予選では、日本女子バレーボール界悲願の出場権をかけて臨み柳本監督から「最後の切り札」として主将に抜擢される。柳本ジャパンの精神的支柱として、闘志を前面に出すスタイルでチームを牽引。見事アテネ五輪出場を果たし日本中を沸かせた。
さらに、国内のみならずイタリアでの海外プレーの経験も併せ持ち、国内では所属した全てのチームで優勝という華やかな戦績を残し「優勝請負人」と呼ばれる。
2006年5月に18年間の現役生活を引退。その後はバレーボール解説者を務めているほか、2009年からは筑波大学大学院へ入学し体育学を専攻するなど、多方面で活動中。
- 1970年
- 北海道に生まれる
- 1988年
- 北海道立妹背牛商業高校卒業後、日立ベルフィーユ入部
- 1992年
- バルセロナ五輪出場
- 1995年
- イタリアセリエAアンコーナ入団
イタリアセリエAローマ移籍
ダイエーオレンジアタッカーズ入部
- 1996年
- アトランタ五輪出場
- 1999年
- 東洋紡・オーキス入部
- 2002年
- パイオニアレッドウイングス入部
- 2004年
- アテネ五輪出場
- 2006年
- パイオニアレッドウイングス退団 現役引退
内
あなたのココロの故郷はどこですか?
『北海道 雨竜郡 妹背牛町』
バレーボールと出会ったスタートの地
思い出の場所
ランニングコース
中学3年間走り続けた場所
吉原知子のココロの友
山下仁美
姉
その他、撮影で訪れた場所
『味処 米里(ベイリー)』
北海道雨竜郡妹背牛町字妹背牛5208番地の1
TEL:0164-32-4141
温泉施設「ペペル」内にあるレストラン。
牛肉をふんだんに使用したモーモー丼や、低価格でこだわりの「週替わりランチ」などが楽しめ、老若男女問わず愛されている。温泉で癒された後などにも是非立ち寄りたいお店。
O.Aに入らなかったエピソード
「お姉ちゃん、ありがとう」
私の姉は、私がバレーをやる事に対して一番応援してくれたと言っても過言ではないくらい応援してくれましたね。結構練習的には、全国大会の切符を取るための全道大会っていう前にかなり追い込まれるんですよね。
もう無理、ついていけないって折れそうになった時だったんですよ、その時に、姉が「練習は嘘つかないんだから頑張って」っていうような事を、何気ない時だったと思うんですよね、ホントに会話してる時に言ってくれて。
それで、そうだなって思いで、折れそうになった時も続けてこれたかなっていう部分があると思います。
自分でも練習して、1つの技術を身につけるときは、もちろんしんどいんです。
ですけど、それを乗り越えると、必ずやっぱりその技術を習得出来たかなっていう感じですよね。
それが出来る様になると、人間ってやっぱり嬉しいじゃないですか、それで、やっぱり練習は嘘つかないんだ、頑張ろうって思いました。
言われてる事はこの事かなっていうのが体感できたっていうのもあるので、すごくこう心の中にすうーっと入ってきた言葉でした。
なんでこの言葉をかけてくれたか分からないですけど、多分ですよ、これは2人で話したことがないんですけど、私の想像では、うちの姉もかなりキツい練習をしていて、自分も折れそうだったと思うんですね、そこを自分に言い聞かせてたっていう部分もあるんじゃないかなって今凄く思います。
でもそう言ってもらえてやはり凄く嬉しかったですし、ライバルっていうか、それを聞いてより一層良い関係になりますよね、何でも相談出来て、何でも言い合えてっていう。
本当に姉妹ならではの関係により一層近づいたかなって感じはしますよね(笑)
今お姉ちゃんに言いたい事は、1番応援してくれて、1番背中を押してくれて、ありがとうって伝えたいですね。
―――苦しい時は、いつもお姉ちゃんが支えてくれました。
吉原知子のココロの旅とは?
大事なものを気づかせて頂いたっていう、そういう気持ちです。
2010年8月17日(火)
ゲスト
阿波野秀幸
1964年、神奈川県に生まれる。
横浜市立桜丘高校から亜細亜大学を経て、1987年読売ジャイアンツ・大洋ホエールズとの3球団競合の末、ドラフト1位で近鉄バファローズに入団。
入団1年目から先発左腕としてローテーションを守り、最多奪三振王(201個)、新人王のタイトルを獲得する。1988年、伝説となる「10.19」のダブルヘッダーに連投し、惜しくも最後に同点打を打たれ優勝を逃すという悲劇を経験。
1989年には最多奪三振(183個)、最多勝利(19勝)のタイトルを獲得し、悲願のリーグ優勝を果たす。その後、1995年に読売ジャイアンツ、1998年に横浜ベイスターズに移籍。この年横浜では50試合に登板して初の日本一を経験する。その日本一を決めた試合で勝利投手となった。
2000年に現役を引退したが、ドラフトで競合した3球団すべてに在籍し、さらにその3球団すべてで優勝を経験するという強運の持ち主である。
2001年から巨人の投手コーチ、2006年には横浜の投手コーチに着任。
2007年からはプロ野球解説者としてはもちろん、様々な経験から他分野へも知的な視線での活躍が期待されている。現在、住友金属鹿島硬式野球部投手コーチとしても活動中である。
- 1964年
- 神奈川県に生まれる
- 1987年
- 近鉄バファローズにドラフト1位で入団
最多奪三振(201個)、新人王を獲得
- 1989年
- 最多勝(19勝)、最多奪三振(183個)を獲得し、リーグ優勝に貢献
- 1995年
- トレードで読売ジャイアンツに移籍
- 1998年
- 横浜ベイスターズに移籍
主に中継ぎとして50試合に登板し、日本一に貢献
- 2000年
- 現役引退
- 2001年
- 読売ジャイアンツ投手コーチに着任
- 2006年
- 横浜ベイスターズ投手コーチに着任
内
あなたのココロの故郷はどこですか?
『神奈川県 横浜市 保土ヶ谷区』
野球選手としての原点の地
思い出の場所
横浜市立桜丘高校
3年間野球部の練習に明け暮れた場所
阿波野秀幸のココロの友
江井幸仁
友人
中学・高校でチームメイトだった仲間
その他、撮影で訪れた場所
『DUMBARTON 』
神奈川県横浜市西区北幸2-10 横浜西口SIAビルB1F
TEL:045-322-4520
オープンしてから22年を迎える老舗レストランバー。和洋さまざまなボリュームのあるお料理を落ち着いた店内で味わうことができる。一人でも大人数でのパーティーでもゆったりとした時間を過ごしたい時に最適なお店。
O.Aに入らなかったエピソード
「中学までは楽しく野球が出来た。」
あの頃は勉強もしましたけどね、特に野球に力を入れて、まあ部活動の範囲でしたけど、随分遅くまでやってたなあと思いますね。
丁度ね、センターの向こう側に球場が見えるんですよ。
あれがあの夏の大会の会場になる保土ヶ谷球場。まあ今は横浜スタジアムも一緒にやってるんですけど。
そこでやる時は全校生徒が応援に来てくれるんで、その辺は励みになりましたね。後に大学、プロって行くんですけど、高校で全て成長出来たというよりは、後に通用する体作りだったりとか、やはり野球に対する考え方だったりとかを、随分このグラウンドの上でね、学ぶ事が出来たかなあと思いますね。
やはり後にプロで活躍する人たちって高校の時に凄く甲子園で活躍したりとか、そういう人たちが多かったりとかして、僕のこの卒業した高校は甲子園にもちょっとまだ出た事が無い、伏兵的な存在になるので、強い学校を負かす為にはどういった野球をやればいいかとか、そういう緻密な事も随分勉強したんで。
グラウンドとかもそうですけど、ミーティングなども毎日毎日重ねて、そういう考えを養っていったというのが今になって凄くプラスですね。まあよく練習しましたよ、真っ暗な中でも。
当時、神奈川県は横浜高校、横浜商業、強い私立の学校がありまして、そこに何とか勝たなきゃ、という事でこのグラウンドで毎日練習してたんですけど、そのとき僕の中学からの同級生で江井という同じ左ピッチャーがいまして、その子が横浜商業に完封勝ちしたんですね。
僕はその頃は試合に出れない時期もあったんですけど、その勝利で更に発奮して、何とか強い学校に勝ちたいなという事で一生懸命やったな、というのをこのグラウンド見て思い出しますね。
野球は小学校4年生から始めました。すぐにレギュラーではなかったんですけど、父親がそのチームのコーチをやってまして、時間を持て余してた息子を見かねてそのチームに入団させたというのがきっかけなんですけど、運動神経良かったので試合には結構出させてもらえましたね。
小学校の高学年になったら常に試合には出させてもらいました。
父親がコーチだったんで、何かあったら皆の前で殴られるのはいつも僕なんですけど。
中学校までは楽しく野球が出来たかな、と。で、いざ高校入ってみたら、1年生で江井はレギュラーになりましたね。
江井はバッティングは良かったのでライトというレギュラーになって、エースではなかったんですけど。
僕は3番手、4番手のピッチャーとして。
レギュラーを取った江井が羨ましいなと思ってました。
子供の頃から仲良しだったんで、そこまで悔しさは無かったんですけど、羨ましいなと思ってましたね。
1年生の夏過ぎてからやはりそういう、ちょっと俺も努力しなきゃな、という気持ちになりましたね。
それからいつも江井を意識して練習するようになりました。
―――江井の存在が僕をここまで成長させてくれました。
阿波野秀幸のココロの旅とは?
改めて原点はあの時期にあったのかなと思いました。
2010年8月10日(火)
ゲスト
小磯典子
1974年、長崎県に生まれる。
長崎県鶴鳴女子高等学校(現 長崎女子高等学校)を卒業後、ジャパンエナジー(現 JXサンフラワーズ)に入団。
ポジションはセンター。ゴール下でのフックシュートを得意とした。
2001年からWリーグ、全日本総合バスケットボール選手権大会ともに4連覇を達成する。さらに日本代表選手としても活躍し、1996年アトランタ五輪に出場し、日本の7位入賞に貢献する。その後3度の世界選手権を経験し、バンコクアジア大会では金メダルを獲得した。2004年アテネ五輪にも出場。
その後一度引退するが、2005年アイシン・エィ・ダブリュ ウィングスで選手兼コーチとして現役復帰。2006年チームのWリーグ昇格を導いた。
2009年のアジア選手権でも日本の3位に貢献。2010年2月をもって現役を引退。
- 1974年
- 長崎県に生まれる
- 1992年
- ジャパンエナジー(現 JXサンフラワーズ)入団
- 1996年
- アトランタ五輪出場 7位入賞
- 1998年
- バンコクアジア大会にて金メダル獲得
- 2004年
- アテネ五輪出場後引退
- 2005年
- アイシン・エィ・ダブリュ ウィングスで選手兼コーチとして現役復帰
- 2008年
- 北京五輪世界最終予選で日本代表に復帰(チームは敗退に終わる)
- 2010年
- 現役を引退
内
あなたのココロの故郷はどこですか?
『千葉県 柏市 光ヶ丘』
バスケットボール選手としての原点の地
思い出の場所
JXサンフラワーズ体育館
バスケットの練習に毎日励んだ場所
小磯典子のココロの友
キムピョンオク
恩師
実業団で16年間小磯を指導したコーチ
その他、撮影で訪れた場所
『なつめ』
愛知県安城市日の出町10-16
TEL:0566-77-1750
新鮮な海鮮料理から家庭的な手作りおかずまで豊富なメニューが楽しめる居酒屋。
ホッとできる雰囲気も地元の人から愛されている理由の1つ。
O.Aに入らなかったエピソード
「実業団に入ったきっかけは?」
バスケットを始めたのは小学4年の時だったんですけど、2つ上の姉がやってて、それをずーっと見てて面白そうだなと思って、その影響で始めました。
中学2年生で身長が20cm伸びまして、179cmになったんですけど、当時の長崎の名門、鶴鳴女子高等学校という所のバスケットボールの監督さんからお声がかかりまして。うちの高校に来ないかと。で、その鶴鳴に。
当時は推薦で入れるという事だったんで、まあもちろんその監督さんの考え方に惚れ込んだっていうのもあったんですけど、でも勉強しないで楽に入れるっていうので(笑)そこに決めて、その高校に入りました。
高校3年生の夏のインターハイで優勝できまして、日本1になりまして、そしたらここのJOMOの監督さんから目がかかって、うちに来ないか、という事でここに入団することにしました。
バスケットを始めた頃はバスケット1本で生きて行こうなんて全く思ってませんでした。
その当時の夢は看護士さんになる事で。
身長が伸びると同時に体力も全くなくなっていて、バスケットコートを1往復したらもうぜえぜえはあはあ言ってる状態だったんで、まさか自分がバスケットのプロの選手になるとは思ってもみませんでした。
JOMOから声をかけられて入団したときは、なんとかなるんじゃないかっていう感じでしたね。
当時はもしダメでも4年やってダメなら辞めて(笑)また学校に通って看護士さんになればいいやっていう感じでした。
まあそれで実際実業団に入ってみたらレベルの高さに驚いて、精神力も技術も体力も全く敵わないし、そこまで成長するのは相当な努力が必要だろうなと思われたので、逃げたい、と。その一心でした。
でも途中で逃げ出すのはよくないかなあと思いまして、どうせ辞めるなら1年間区切りをつけて、次の年はやるならやる、やらないならやらない、っていうのがあったので、1年間は頑張って我慢して、時間をすごしていきました。恥ずかしい話ですけど。そんな時に、キムさんと出会ったんです。
―――逃げ出さずに頑張って本当に良かったと思います。
小磯典子のココロの旅とは?
良い日になりました。
2010年8月3日(火)
ゲスト
神奈月
1965年、岐阜県に生まれる。
高校卒業後上京し、アルバイトをしながら「ものまね芸人」としてオーディションに挑戦する。1987年デビュー。長嶋茂雄、新庄剛志、武藤敬司などプロレスラーや野球選手を題材にしたマニアックなものまねでコアなファンを獲得している。また、その他にも井上陽水、萩原流行、石原良純など数多くのレパートリーをもち、2004年には『神奈月の顔芸103!!』を出版。
2005年から2009年まで年1回の単独ライブ『パーティー★フォーティー』を自身の誕生日である11月3日に開催。現在全日本プロ・レスリングにて武藤敬司とタッグを組み「F-1タッグチャンピオン」として防衛中。
- 1965年
- 岐阜県に生まれる
- 1987年
- デビュー
- 2001年
- 太田プロダクションに所属
- 2004年
- 「神奈月の顔芸103!!」出版
- 2005年
- 単独ライブ「パーティー★フォーティー」開催
(以降2009年まで毎年11月3日に開催している)
- 2006年
- 全日本プロレスF-1タッグ選手権チャンピオン
(以降現在まで9度目の防衛中)
- 2009年
- 単独ライブ「パーティー★フォーティーファイナル」を開催
内
あなたのココロの故郷はどこですか?
『東京都 渋谷区 道玄坂』
プロの芸人としてスタートした場所
思い出の場所
ライブハウス La.mama
初めて舞台に立った場所
神奈月のココロの友
佐野雄司
友人
神奈月を支えてくれた当時のバイト仲間
その他、撮影で訪れた場所
『菜な 渋谷宮益坂下店』
東京都渋谷区渋谷1-14-16 渋谷野村證券ビル B1
TEL:03-5468-9696
木のぬくもりが心地良い落ち着いた店内で、京都直送の野菜を使った伝統的なおばんざい、徳島産阿波尾鶏など素材にこだわった炙り焼きなどの料理を堪能する事が出来るお店。
O.Aに入らなかったエピソード
「友達や先生のものまねをした事が始まりだった」
ものまねを一番最初にやり始めたのは中学生の頃ですね。自分の担任の先生とかですね、学校の先生の物まねとか友達のものまねとかやってました。
先生はものまねしやすい特徴のある人しかやらなかったんで、授業中とか見てて、あ、この先生こういうしゃべり方するなとか、こういう口癖があるなっていうのを見ながら、休憩時間になって、友達の前で「あの先生ってこうじゃない?」っていう風に言ったらウケたんで、あ、これでウケるんだって認識して。
じゃあ次はこの先生やってみようかなとかそういう目でずっと授業とか見てましたね。
当時はですね、仲のいい親友にまず見せるじゃないですか、それで「面白いな」って言ってくれて。
で、その親友が、「僕(神奈月)がものまねをするからちょっと見に来いよ」と。まあ3人くらいになりますよね。
それでまた面白がるじゃないですか皆。それがどんどん増えるわけですよ。日に日に放課後になると。
10人になり、15人になり。クラス全員が僕のものまねを見るようになるみたいな感じで、どんどんどんどんその波及効果というか、広がっていきましたね。見る数が。
さすがに先生の前では出来なかったですね、度胸なくて。
怖いんで先生は(笑)まあそれでクラスのみんなは大絶賛してくれて、転げ回って喜んでまして。
その姿見て、あ、もっとものまねやって皆を笑わせてやりたいなっていう気分になっちゃいました。
それで19歳の時に上京しました。
一応親には専門学校を卒業して就職するからという名目だったんですけど、僕の心の中の8割は芸人になりたい、タレントになりたいっていう気持ちで上京しました。
それから当時は素人参加のものまね番組とか一発芸をする番組が結構あってですね、はがき出したり人に聞いたりしてオーディションを受ける日々が続いたんですよ。
―――皆を笑わせたいっていう気持ちが僕をここまで動かしてくれましたね。
神奈月のココロの旅とは?
自分の原点を再確認できた一日でしたね。
2010年7月27日(火)
ゲスト
SABU
1964年、和歌山県に生まれる。
1986年俳優として「そろばんずく」でデビュー。1991年には「ワールド・アパートメント・ホラー」で初主演し、第13回ヨコハマ映画祭 最優秀新人賞を受賞する。1995年頃より自身の企画で脚本を書き始め、1996年「弾丸ランナー」で監督・脚本デビューを果たす。第18回ヨコハマ映画祭 新人監督賞を受賞すると同時に、ベルリン国際映画祭をはじめ海外の映画祭で一躍注目を浴びる。
その後も「ポストマン・ブルース」「アンラッキー・モンキー」と立て続けに話題作を発表。続いて2000年公開「MONDAY」では、第50回ベルリン国際映画祭 国際批評家連盟賞を受賞する。同年「弾丸ランナー」が全米で公開される。
2002年にはこれまでの集大成ともいえる「DRIVE」がカナダ・ファンタジア映画祭にて審査員部門・最優秀アジア映画作品賞を受賞。
2003年「幸福の鐘」を発表。同作品は第53回ベルリン国際映画祭 NETPAC賞(最優秀アジア映画賞)を受賞する。
2006年には初の原作に挑戦した話題作、重松清著の「疾走」を手掛け、国内外で高い評価を受ける。2009年にはプロレタリア文学の代表作として知られる「蟹工船」(原作:小林多喜二)を発表。
- 1964年
- 和歌山県に生まれる
- 1996年
- 「弾丸ランナー」公開(ヨコハマ映画祭 新人監督賞受賞)
- 1997年
- 「ポストマンブルース」公開
- 1998年
- 「アンラッキー・モンキー」公開
- 2000年
- 「MONDAY」公開(ベルリン国際映画祭 国際批評家連盟賞受賞)
- 2002年
- 「A1012K」(ショートムービー)、「DRIVE」公開
- 2003年
- 「幸福の鐘」公開(ベルリン国際映画祭 NETPAC賞受賞)
- 2004年
- 「ハードラックヒーロー」発表(ビデオ・DVDのみ)
- 2005年
- 「ホールドアップダウン」公開
- 2006年
- 「疾走」公開(ベルリン国際映画祭 パノラマ部門正式出品)
- 2009年
- 「蟹工船」公開(ベルリン国際映画祭 フォーラム部門正式出品)
内
あなたのココロの故郷はどこですか?
『東京都 渋谷区 幡ヶ谷』
俳優を夢見て下積み時代を送った場所
思い出の場所
岩富水道工業所
20歳から10年間アルバイトをした場所
SABUのココロの友
岩崎陽吉
恩人
SABUが働いていたアルバイト先の社長
その他、撮影で訪れた場所
『黒豚しゃぶしゃぶくろ黒亭』
東京都渋谷区幡ヶ谷2-48-5
TEL:03-3373-2117
鹿児島から食材を空輸し地元の味にこだわった黒豚料理が自慢。とろとろの角煮や黒豚のしゃぶしゃぶなど絶品の料理が堪能できる。落ち着いた雰囲気の店内で、席はゆったりくつろげる掘りごたつ式。
O.Aに入らなかったエピソード
「昔は喧嘩っ早かった」
元々バンドをやってまして、それであの東京出てっていう風に話が進んだんですけど、結局解散する事になって、それでまあ一人で出て来て、さあどうしよう?ってことで、自分で作ったデモテープなんかを持って何処かの事務所にでも行ってみようってことで行った先が役者事務所で(笑)勘違いしちゃって。
でも何か背も高いしっていうので俳優やらないですか?って声かけられて、まあ取っ掛かりとしてはいいかと思って。
バンドってメンバー探すの中々大変ですからね。
そこからその事務所に入ったのがきっかけで役者業を始めました。
なんかちょっとこっ恥ずかしかったですけど、元々バンドもそうですしその前も、野球部だったんですけどね、中学、高校と。
高校は軟式しかなかったんでバンドとかもやれたんですけど。
結局そのグループっていうか個人プレイっていうのがやった事がなくて、でも一人で努力するのは割と好きなんで、それがちゃんと結果に出るっていうのがいいなっていう事で役者業もいいなって思って。
バンドとかね、中々自分が一人頑張っても周りが頑張ってくれなかったら…ねえ(笑)
そういうイライラがあったりするんですけど。
田舎で大きい口叩いて、「俺はビッグになる!」みたいな事を言ってて。それで東京上京しました。
元々芸能というか芸術というか、そっちじゃないとなんか無理なタイプなんで。普通のお勤めはちょっと。
でも生活していかないといけないんで、アルバイトを探しました。
最初はラーメン屋さんだったり、牛乳配達みたいのだったり、ほとんどが1週間でクビになっちゃって。すぐ喧嘩しますからね(笑)
自分の担当する部分じゃない部分まで言って来たりするとカチンときたり。
言い方一つで頭くるんですよ。
それでラーメン屋で働いてた時の知り合いからこの水道屋さんを紹介されて、ここの親分(社長さん)がすごく良い方で良いとこ見つけたって感じでした。
初めて会った時に、役者を目指してる事を伝えたら「頑張って」って言ってくれて、家族ぐるみで応援していただいて、中々そういう場所は見つからないんで、何て言うんですかね…すごく良かったです。
―――親分が居てくれたから頑張る事が出来ましたね。
SABUのココロの旅とは?
頑張るぞって感じです。
2010年7月20日(火)
ゲスト
川上直子
1977年、兵庫県に生まれる。
小学校入学と同時にサッカーを始め、中学在学中からTASAKIペルーレに所属。
2001年女子サッカー日本代表(現 なでしこジャパン)に選出され、2003年FIFA女子ワールドカップや2004年アテネオリンピック(ベスト8)に出場。右サイドバックとして48試合の代表戦に出場した。
2005年日テレ・ベレーザに移籍し、同年の優勝に貢献。スピードと豊富な運動量でLリーグ(現 なでしこリーグ)ベストイレブンに5度選ばれた。
2006年の天皇杯を最後に現役を引退。現在は、女子サッカーの普及の為、女性を対象にした「川上直子サッカースクール」を開校。サッカー解説を中心に執筆、講演活動も積極的に行っている。
- 1977年
- 兵庫県に生まれる
- 1990年
- 田崎真珠神戸FCレディース所属
- 1993年
- TASAKIペルーレ所属
- 2001年
- 第13回アジア女子選手権 準優勝
- 2003年
- 第14回アジア女子選手権 4位
- 2004年
- アテネオリンピック ベスト8
- 2005年
- 日テレ・ベレーザへ移籍
- 2006年
- 現役引退
内
あなたのココロの故郷はどこですか?
『兵庫県 神戸市 須磨海岸』
練習に励んだ原点の場所
思い出の場所
須磨海岸
TASAKIペルーレ時代練習で来ていた
川上直子のココロの友
高田泰樹
恩師
川上の才能を見出してくれた恩師
その他、撮影で訪れた場所
『海鮮居酒屋 海流 三宮店』
兵庫県神戸市中央区琴ノ緒町5-1-411
TEL:078-242-2102
明石をはじめとする漁場直送の新鮮な魚介類など、四季折々の山海の恵みを和の本格職人による手作り料理で味わうことができる。
O.Aに入らなかったエピソード
「男の子よりも強かったサッカー少女」
2つ上に兄がいるんですけども、兄が小学校2年生の時に小学校のサッカーチームに入ったのでその後を追って私も始めました。
当時は女の子がサッカーするっていう事がすごく珍しかったんですが、私はそういうことも関係無く、ただお兄ちゃんに負けたくないんだっていう気持ちで始めましたね。
サッカーチームは男の子ばっかりでした。
だからやっぱり「女だ、女だ」って試合とかに行っても言われたりするんですけど、そこまで嫌ではなかったんですよね。
女の子だけど別にそんなことに関係なく、男の子になんか負けないよ、と。女だ!ってバカにされてもあんたに負けないよ!っていうような、すごい勝ち気だったんですよね。
実際にも男の子に負けなかったんですよ。
ポジションは小学校のときは全部やりましたね。
フォワードもやりましたし、ゴールキーパー以外は全部やりました。
今思えばすごい負けず嫌いで全然可愛くないなって思いますけど。
その後は、私、明石市で生まれたんですけど、隣の神戸市のチームに入りました。
小学校の時、サッカーを男の子の中でやってて、中学校は男の子の中でサッカーするのはもういいかな…て思ってたんですよ。
でも、女の子のサッカーチームがあるよっていうのを教えていただいて、それがきっかけで中学校の頃から女子のサッカーというのをスタートしましたね。
女子のチームにというか、中学生にもなると体つきも違いますし、男子の中でサッカーをやるのは無理だろうなと思ってたんですけど、小学校のとき、私女の子だけのサッカーがあるって知らなかったんですね。
女の子だけのサッカーチームがあるんだよ、と。
しかも日本リーグっていう、女子にもそういう大きなリーグ戦があって、そこで闘えるんだよ、そういうチームがあるんだよって教えてもらったんです。
―――だから、じゃあ女子サッカーに挑戦してみようって思いました。
川上直子のココロの旅とは?
なんか、初心に戻れたような感じがしますね。
2010年7月13日(火)今回の放送は、よる10:09〜10:15です。
ゲスト
大森一樹
1952年、大阪市に生まれる。
高校時代より8ミリフィルムで自主映画製作を始める。
1975年自主制作映画「暗くなるまで待てない!」などで注目を浴び、若い感性で映像表現に挑む自主映画の旗手的存在となる。1977年「オレンジロード急行」で城戸賞を受賞し、翌年商業映画デビュー。以降、「ヒポクラテスたち」(1980年)、「恋する女たち」(1986年)、「ゴジラVSキングギドラ」(1991年)、「シュート!」(1994年)、「T.R.Y.」(2003年)、「悲しき天使」(2006年)など多くの作品を製作し、数々の映画賞を受賞。著書に、『震災ファミリー』『あなたの人生案内』など。また、次代の映像文化を担う人材育成にも尽力し、2005年より大阪芸術大学芸術学部映像学科教授に就任する。
最新作「世界のどこにでもある、場所」が2011年初頭公開予定。
- 1952年
- 大阪市に生まれる
- 1977年
- 「オレンジロード急行」で城戸賞を受賞、
翌年同作品にてメジャー映画監督デビュー
- 1986年
- 「恋する女たち」にて文化庁優秀映画賞、
第11回日本アカデミー賞 優秀脚本賞・優秀監督賞受賞
- 1988年
- 文部省芸術選奨新人賞受賞
- 1996年
- 「わが心の銀河鉄道〜宮沢賢治物語」にて
第20回日本アカデミー賞 優秀監督賞受賞
- 2005年
- 大阪芸術大学芸術学部映像学科 教授に就任
内
あなたのココロの故郷はどこですか?
『兵庫県 神戸市 中央区』
映画作りの原点となった場所
思い出の場所
居酒屋「金盃」
自主映画の仲間と通った
大森一樹のココロの友
南浮泰造
友人
大学時代一緒に自主映画を作った仲間
その他、撮影で訪れた場所
『金盃 森井本店』
兵庫県神戸市中央区北長狭通2丁目31-42
TEL:078-331-5071
神戸三宮のガード下にある創業90年を誇る老舗の居酒屋。
自家製の時間をかけた手作り料理と温かいレトロな雰囲気に魅了されたファンが全国から足を運ぶ。
O.Aに入らなかったエピソード
「映画監督になれると思わなかった」
映画を見始めたのは中学生の頃かな、怪獣映画とか、中学校から始まって、その頃洋画に興味が出てきたな。
サウンドオブミュージックとか。
日本映画ってまあねえ、春休みとか夏休みとか友達と見に行くもんやったんですけど、その洋画見だしてから特別な個人的なものになってきましたね映画は。
あんまり他の子、中学生なんか他にこう皆まだ目覚める前に早く自分は映画の世界に踏み入れたというかな。まだ他の人あんまり映画見てなかったんじゃないかな。
やっぱりあれかな、ゴールドフィンガーっていうのを見てすごいなあと思って、向こうの映画は。
やっぱりこう派手だし車はぶっ壊れるし音楽もすごい今風だし。
全然あか抜けてる感じがしましたね。
でもその頃はまだ映画を撮りたいとかこういう仕事に就きたいとかそういう気持ちは無かったね。
中学の時に007の神戸ロケがあって、神戸港でやってるのを見に行ったのは、「うわあ映画の現場って凄いな、人がいっぱいいて楽しそうだな」っていうのはありましたけど。
逆にだからそういうの見てたから自分で映画作れるなんて思ってなかったね。
まああの自主制作映画は撮ってたけどそれは映画監督になる為に撮ってたんじゃなくて、映画監督っていうのはもう今と違ってすごい特別なあれで、日本中に何百人しかいない職業で、映画会社で採用もしてなかったから映画監督になるとは思ってなかったですよね。
自分らで映画撮りたいものを撮ろうっていうそれがあっただけで。
自主制作して自主上映してもらったら、それで何かポスターとか会場借りたりするのも自分らでやってたし、それでいくらかお金が残れば皆で飲んで騒いでみたいなことで。
それで映画作ってそれでお金儲けしてそれで職業になるとは全然思ってなかった。
なれると思ってなかった。
だからなろうとも思わなかったというか。
それがまあ思いのほか色んな展開があってあれになってると思うんですけど。
ただあの時あの映画(暗くなるまで待てない!)を撮らなければ今の自分は無かっただろうなとは思いますね。
―――撮りたいものを撮ろうっていう気持ちが大事だと思いますね。
大森一樹のココロの旅とは?
とっても意味のあることやなと思いました。
2010年7月6日(火)
ゲスト
青木愛
1985年、京都府に生まれる。
小学2年生で「京都踏水会水泳学園」でシンクロを始める。小学4年生の時にジュニアオリンピックに出場し優勝。中学2年生で大阪の名門・井村シンクロクラブに移籍し、2005年世界水泳で初の日本代表に選出される。2006年ワールドカップでは日本チームの銀メダル獲得に貢献する。2008年悲願の北京オリンピックへ出場。同年引退。現在は自身も通った「京都踏水会」で指導を行いながら、シンクロの普及やタレント活動を行う。
- 1985年
- 京都府に生まれる
- 2001年
- ジュニア世界選手権 チーム2位
- 2002年
- ジュニア世界選手権 チーム2位、フリーコンビネーション2位
- 2004年
- スイスオープン チーム1位、フリーコンビネーション1位
- 2005年
- 世界水泳で初の日本代表に選出される
- 2006年
- ワールドカップ チーム2位、フリーコンビネーション2位
ドーハアジア大会 チーム2位
- 2007年
- 世界選手権 チーム(フリー)3位、チーム(テクニカル)2位、
フリーコンビネーション2位
- 2008年
- 北京オリンピック チーム5位
現役引退
内
あなたのココロの故郷はどこですか?
『京都府 京都市 左京区』
シンクロに出会った原点の場所
思い出の場所
スイミングスクール 京都踏水会
シンクロに明け暮れていた
青木愛のココロの友
井村雅代
恩師
青木を指導した日本シンクロ界の名コーチ
その他、撮影で訪れた場所
『京料理 先斗町 富美家』
京都府京都市中京区先斗町歌舞練場南隣2軒目
TEL:075-211-5054
創業60年を迎える老舗の京料理屋。京都の気品あふれる素敵な店構え。
これからの季節は鴨川沿いに並ぶ川床もあり、涼やかな風を感じながら美しい景色を堪能することもできる。
O.Aに入らなかったエピソード
「シンクロしかない!」
シンクロを始めたのは小学校2年生の時で、最初はシンクロのお姉さんによく遊んでもらってて、綺麗やなっていうのに憧れを持って自分もやってみようと思って始めました。
最初は足を一つパーンって上げれたりクルンって回れたりしたらすごい嬉しかったんですけど、小学校4年生くらいの時から結構本格的な練習に入ってきて、そこからはちょっと厳しくて「嫌やな…」って思う事もちょっとありました。
小学校6年生、中1くらいの時はしんどいながらも楽しいと思ってたみたいなんですけど…親曰く。「自分でも払うから行かして!」って言ってたみたいなんですけど、中学校3年とか高1、高2とかなってきたら、周りの普通の中学生・高校生してる子らに憧れたりして「いいなぁ、遊べて…」みたいなのとかは感じるようになったり。
本格的な練習が始まってその時に初めてジュニアオリンピックにそのチームの中で1番年下で出させてもらって、もうすっごいその夏休みはついて行くのに必死で上の人らも凄い上手かったしレベルも高かったんですけど、そのチームで優勝する事が出来て、ほんまに嬉しくって「あぁもうシンクロほんまに好きやわ!」ってそこで思う事が出来ました。
1番最初にジュニア記録会っていうほんまに基礎の、足上げるだけとかの試合があるんですけど、もう74人中74番やって、それすっごい今でも覚えているんですけど。
あんまり足上げるのとかは今でもたぶん出来ないです…。しんどい思いしたけど、ご褒美じゃないですけどそれに対してちゃんと結果がついてくるっていうのが小さいながらに分かってました。
―――シンクロしか私には無いなって思いました。
青木愛のココロの旅とは?
今の自分があるのはシンクロがあるからだと改めて思いました。
2010年6月29日(火)
ゲスト
千葉真子
1976年、京都府に生まれる。
立命館宇治高等学校で本格的に陸上を始める。
1995年旭化成に入社。1996年1万メートルで日本新記録(当時)をマーク。同年、アトランタ五輪1万メートルで5位に入賞する。
1997年東京シティーハーフマラソンで1時間6分43秒の日本最高記録をマーク。さらにアテネ世界選手権で日本人トラック初となる1万メートルで銅メダルを獲得する。2001年旭化成を退社し、株式会社豊田自動織機の女子陸上競技部員として、佐倉アスリート倶楽部、小出義雄氏のもとで修業を積む。
2003年パリ世界選手権のマラソンで銅メダルに輝く。世界初トラック、マラソン両種目のメダルを手にした。
2005年からは小出氏のもとを離れ、競技人生の集大成として自らの考えと計画のもとでマラソンに挑戦した。2006年8月に行われた「北海道マラソン」を最後に第一線から退く決意を表明。現在は、マラソン大会のゲストランナーとしての参加や、講演会、メディアなどで活躍。2007年には自身プロデュースによるスポーツイベント「ベストスマイルラン〜ワールドレコードチャレンジ〜 in 宇治」を開催。ドバイマラソン親善大使やオリンピックデーランアンバサダーとしても活動。
- 1976年
- 京都府に生まれる
- 1996年
- アトランタ五輪10000m 5位入賞、この種目では日本人初の快挙となる
- 1997年
- 東京シティーハーフマラソン 日本最高記録を樹立し優勝
アテネ世界陸上10000mで銅メダルを獲得
- 2001年
- 北海道マラソン 優勝
- 2002年
- ロッテルダムマラソン 2位
- 2003年
- 大阪国際女子マラソン 2位
パリ世界陸上マラソンで銅メダルを獲得
- 2004年
- 北海道マラソン 優勝
- 2005年
- 北海道マラソン 優勝
- 2006年
- 北海道マラソン 11位(現役としてのラストランとなる)
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『京都府 京都市 西京極』
マラソン選手を目指したきっかけの場所
思い出の場所
西京極陸上競技場
全国高校駅伝で第1区を走った場所
千葉真子のココロの友
荻野由信
恩師
高校3年間 陸上部で指導を受ける
その他、撮影で訪れた場所
『旬鮮の房 はたごや 西京極店』
京都府京都市右京区西京極東池田町25 西京極セントラルハイツ1F
TEL:075-323-6911
千葉さんのココロの故郷となった西京極陸上競技場のすぐそばにあるお店。
「まるごとトマトおでん」や「地鶏石焼鍋」など、他のお店では味わえないオリジナルメニューを楽しむことができる。
O.Aに入らなかったエピソード
「陸上を始めた頃…」
私が陸上を始めたきっかけは、中学校の時はテニス部だったんですけれども、3年生の体育の授業の時に足が速くて、中学校の陸上部の先生に「ちょっと駅伝手伝ってくれ」という風にたまたま誘われまして、それがきっかけで駅伝をやってみたことで、マラソン人生に繋がったのかな…という風に思いますね。
生まれて初めての駅伝は仲間と共に走るのでたすきをもらった時にゾクッという身震いがしたというか、みんなの魂がすごく伝わってきたのでそこに魅力を感じました。
その時、陸上は自分ではすごく向いているな、と感じました。
で、高校に入ったら絶対に陸上部に入ろうと心に決めました。
でも、どうせ陸上をやるんだったら強い学校で一生懸命頑張りたいなという意志があったので、名門の立命館宇治高校に入りました。
実際入るとやっぱり全国から強い選手が集まってくる名門なので、1日練習に行っただけで全身が酷い筋肉痛で足の裏に豆が10個以上出来てしまって、「うわ〜とんでもない所に来てしまったな」と本当に驚きましたね。
辞めたいとも思いましたけど、やっぱり陸上をやる為にその学校に入ったので、親にも「私はやるんだ!」とお願いをして入れてもらったんです。
自分だけの夢ではなくて両親とかみんなが応援してくれてるから頑張りたいなという。
―――みんなの支えがあって途中で投げ出さずに済みました。
千葉真子のココロの旅とは?
すごく勇気をもらいました。
2010年6月22日(火)今回の放送は、よる10:04〜10:10です。
ゲスト
美濃輪育久
1976年、岐阜県に生まれる。
幼少期、父親の影響で観はじめたプロレスのとりこになり、小学4年生の時にプロレスラーになることを決意する。高校時代は柔道部に所属する傍ら、独自のトレーニングでプロレスラーを目指す。卒業後は、体育専門学校に通いながら数々のアマチュア格闘技大会に出場し好成績を挙げる。1996年パンクラスの入団テストを受けるも不合格。そのテストの際に知り合った諸岡秀克氏主宰のアマチュア格闘技団体である誠ジムに所属。1997年パンクラス・ネオ・ブラッド・トーナメントでプロデビュー。同年8月には、念願であったパンクラス入団を果たし、常識を超越したアグレッシブなファイトで人気を博す。2003年パンクラスを退団。以降、ブラジルを始め世界各国での武者修行を始める。同年12月にはPRIDEへ参戦し、ステファン・レコ、フィル・バニーロなどの強豪に勝利を収める。2007年8月よりHERO’Sに参戦し、ケビン・ケーシーにKO勝ち。無差別級での対戦を信条とし、巨漢ファイターとも真っ向勝負を展開。DREAM参戦後もヘビー級戦士に勝ち、2009年に行われたスーパーハルクトーナメントではボブ・サップ、チェ・ホンマン、ソクジュをすべて1本KOで倒して見事優勝を果たした。総合格闘技界の革命児としてさらなる活躍が期待されている。
- 1976年
- 岐阜県に生まれる
- 1997年
- パンクラスに入団
- 2003年
- パンクラス退団
PRIDEに参戦
- 2007年
- HERO’Sに参戦
- 2009年
- スーパーハルクトーナメント〜世界超人選手権〜にて優勝を果たす
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『愛知県 岡崎市 大門』
プロレスラーを目指した原点の地
思い出の場所
誠産業鉄工所(2009年閉鎖)
美濃輪が働いていた場所
誠ジム跡地
美濃輪がトレーニングしていた場所
美濃輪育久のココロの友
諸岡秀克
恩師
その他、撮影で訪れた場所
『魚常』
愛知県岡崎市下青野町字本郷25
TEL:0564-43-2136
開放感のある店内でいつも元気の良いスタッフが迎え入れてくれる。
メニューは旬の海の幸が中心で、季節感溢れる料理を堪能することができる。
O.Aに入らなかったエピソード
「練習がしたくてたまらなかった」
仕事が終わるのが5時か5時半くらいだったんですけど、もう4時くらいから練習がしたくてそわそわそわそわして仕事に集中してなかったですね。
後半は、練習のことばっかり考えてましたね。
後は早くプロになりたい、試合がしたいっていう希望と夢に満ちあふれていてとにかくもう早く仕事終わって練習したい、今日の練習はどんな練習しようってことばっか考えてましたね。
ただ練習して強くなっていくだけじゃなく、仕事をしてお金をもらって生活していく、この上での練習がある、食べていけるっていう、こう社会生活を学ぶ事ができましたね。この1年間で。
そわそわしすぎてミスする日もありました。
練習のことしか考えてないなっていうことは上の方にはばれてたと思います。
やっぱりミスしたり仕事に影響が出るような事であれば怒られますけど。
鉄工所の皆さんは最初はやっぱり自分という人間を分かってもらえなかった所もあったんですが、だんだんと格闘技に集中していく姿を見てだんだん応援してくれるようになりました。
プロレスラーになろうと思ったのは14歳の中学2年の夏頃です。
プロレスを見て生で見てテレビでも見て、アントニオ猪木さんに憧れてプロレスラーになりたいと思いました。
強さ、凄さ、なんか体に溢れ出るものがありましたね。こみ上げる物が。
猪木さんみたいになりたい、強くなりたいと思いました。
でもどうしたら強くなれるのか分からなかったので、とにかく色んな雑誌や本を見て自己流のトレーニングを、ヒンズースクワットだったり腕立て伏せだったり、あとはもう一人プロレスごっこをよくやってました。
布団を丸めて相手の形にして技をかけたりしてましたね。
―――ここでの仕事や練習があったから今の僕がいると思います。
美濃輪育久のココロの旅とは?
これからも大きな夢に向かって突き進みたいなと思いました。
2010年6月15日(火)
ゲスト
市橋有里
1977年、徳島県に生まれる。
中学卒業後の1993年に上京。「トップレベルの長距離ランナー育成」を目的とした日本陸上競技連盟直轄のランニングクラブに所属し、本格的なトレーニングを開始する。1999年世界選手権セビリア大会で銀メダルを獲得。世界大会のマラソン種目では史上最年少のメダリストとなった。
2007年の東京マラソンで現役生活を引退する。現在は、ゲストランナーとして各地のマラソン大会に参加したり、ランニングアドバイザーとして様々なメディアに出演するなど、活動の幅を広げている。
- 1977年
- 徳島県に生まれる
- 1997年
- 名古屋国際女子マラソン4位
札幌国際ハーフマラソン1位
- 1998年
- 札幌国際ハーフマラソン1位
東京国際女子マラソン2位
- 1999年
- 世界選手権セビリア大会にて銀メダルを獲得
- 2000年
- シドニー五輪15位
- 2007年
- 現役引退
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『徳島県 鳴門市 大麻町』
陸上を始めた場所
思い出の場所
大麻中学校
陸上に明け暮れた地
市橋有里のココロの友
西條一之
恩師
その他、撮影で訪れた場所
『味道筋大家』
徳島県鳴門市撫養町小桑島字前浜249-2
TEL:088-685-1904
鯛の塩釜焼きなど、鳴門の魚介や旬の幸を使った料理を味わう事ができる本格割烹のお店。一人から宴会まで対応できる様々な席があり、地元で人気を集めている。
O.Aに入らなかったエピソード
「どんな練習をしていた?」
最初は男子のメニュー、女子のメニューって分かれてたんですけど、女子のメニューをこなしている内に段々もの足りなくなって、そのうち私も男子のメニューをこなす様になって、ほとんど男子と一緒に走ってましたね。
男子のメニューの方が質も量も多かったんですけど、その内その男子のメニューも物足りなくなってきたので、レベルの高い高校生と走ったりしてました。
西條先生は私だけハードなトレーニング、大きな大会の前だとちょっとハードなトレーニングを組んでくれたり、そこで高校生と一緒に練習させてくれる場を持たせてくれたりとか、特別なメニューを作っていただいてました。
2年、3年とどんどんレベルアップして、特別なメニューをずっと組み続けてくださいましたね。
メニューは200メートルのインターバルを10本から20本、20本から30本って言う感じでどんどんどんどん増えていってましたね。結構キツかったですね。
そのインターバルのキツさもやっぱり皆でするから楽しかったりとか、あと、皆が10本で終わる所を私だけプラス5本とかっていうメニューもあったんですけど、それもなんか「私頑張ってる」とかそういう快感でもありました。
もちろん西條先生は私とマンツーマンではなく、基本的にはみんな一緒に練習してたので、皆を見られてましたね。
メニューも個別で渡されるんじゃなくて、皆同じメニューなんですけど、「市橋プラス」とかいう感じで書かれてて、私だけのプラスαのメニューがありましたね。
期待をされてたのはもちろん分かってましたけど、他の選手に対してちょっとこう、私だけっていうのが申し訳ないなっていう感覚はありましたね。
期待されるのは凄く嬉しくてやりがいもありました。辛さよりも与えられたメニューをこなすっていう嬉しさの方が大きかったですね。
本当に西條先生は朝練からずっとこられていてすごく熱心に見てくれてました。
―――先生を信じてたから出来た事だと思います。
市橋有里のココロの旅とは?
またこれから頑張れそうな気がします。
2010年6月8日(火)
ゲスト
金城浩二
1970年、沖縄県に生まれる。
1998年に沖縄沿岸のサンゴの大規模白化を目の当たりにし、軌道に乗っていた飲食事業を人手に譲り、サンゴの養殖を仕事にすることを決意する。試行錯誤の末、2005年には養殖して移植放流していたサンゴが世界初の産卵に成功。
2007年、青年版「国民栄誉賞」とも言われる「人間力大賞」、「内閣総理大臣奨励賞」を受賞する。現在は、有限会社「海の種」の代表取締役を務める。
2010年4月公開映画「てぃだかんかん〜海とサンゴと小さな奇跡〜」のモデルとなったことでも話題である。
- 1970年
- 沖縄県に生まれる
- 1998年
- サンゴの養殖と移植をスタートさせる
- 2002年
- 沖縄県北谷町にて初の養殖サンゴの移植を行う
- 2004年
- 移植したサンゴが産卵
有限会社 海の種を設立、さらに活動に没頭する
- 2005年
- 養殖して移植放流したサンゴが産卵
自然海で移植した養殖サンゴが産卵するのは世界初の快挙となり大きな注目を浴びる
- 2007年
- 功績を認められ「人間力大賞」を受賞
さらに環境大臣奨励賞、内閣総理大臣奨励賞をダブル受賞する
- 2010年
- 陸上に造られたサンゴ育成、保全のための施設“サンゴ畑”がプレオープン
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『沖縄県 読谷村』
サンゴと出会った自分の原点
思い出の場所
沖縄の海
子供の頃から毎日過ごした場所
金城浩二のココロの友
金城みさえ
妻
O.Aに入らなかったエピソード
「子供の頃から海に興味があった」
海に居るのが当たり前な感じだったよね。生き物がとにかく好きで生物に関わる仕事をしたいとは思ってたね。
中学くらいから人並みにぐれちゃって(笑) 社長になるのを夢見だしたっていうか。中学校くらいから。でも何かあったら海に行くから。何か悩んでも海行くし。休みたくても海行くし。そういう場所だからね海は。
将来海と関わる仕事に就いてみたいと思ったけど、具体的にではなかったからね。
ただ自然にそういう風に生きていってたから。そういう職業に向かうだろうとしか思ってなかったから。そこ以外興味がある事もなかったし。ただ中学くらいから海は遊ぶ場所で職業とは思えなくなって来てた。
ちょっとね僕は高校出てからすぐ自営業始めたから。ちょっとお家が貧乏で可哀想な感じだったから。社長になりたいって思いだして。
高校でてすぐ自営業、友達と二人で始めた。だからまともに会社員とかなった事無い。
一番最初はチューニングショップ兼レース使用車を作るみたいな。海は全然関係ない。
その頃はリーゼントな感じで(笑)今とは全然違う事をやってたから。
中学、高校くらいからはやんちゃなんだけど自宅では水槽見てニヤニヤしてるみたいな、全然良い子じゃないよね、ヤバい感じだよね(笑)
まあ色んな事やったけどね。
自営業やる前も雑貨屋もやったし車屋もやったし飲食店、釣具店、全部事務所は海な感じとか。必ず海の要素のあるお店をやってたけどね。
そこでたまたま海っていうのに喜ぶお客さんが多くて、飲食店やりだした頃にサンゴが見れるバーみたいなことやってそこが流行ったかな。
高校出て車屋やって友達とちょっと稼いだら喧嘩別れして出稼ぎに行ったわけ。一度名古屋の方にね。
その貯めたお金で1号店を出して。
ただ名古屋行った時にテレビで沖縄の海とかが出ると泣きそうになるわけ、ホームシックというか。
何かあっちらへんからまた海に対する思いが強くなっていったっていうね。沖縄から離れてから。
中学の時に実家が差し押さえになって、マイホームを建てるのが僕の人生の目標だったから、稼ぐって言う事を一生懸命。
で、実際お金が入って来て儲かったからマイホーム建てて。満足したんだけどそこからどんどんアホになっていったよね。
金稼いでオーナー経営みたいな、従業員には「経営とは」みたいな事言ったり「商売とは」みたいなこと言ったり。
だけども本当は何も知らないっていうかね。努力をしなくなったよね。ああだこうだ言うくせに自分は海で遊んでるみたいな。オーナー経営っていう。そこにいけば幸せだと思ってたからね。
でもだんだん自分が何の為に生きてるのかなって思うようになって。稼ぐってなにかなって思ったりして。マイホーム建てたら目標が無くなった。本当に。
だから何やっていいか分かんなくなって。他界したおふくろに一言言われて。
僕が羽振りよく調子こいた感じの時に、うちのおふくろに「男っていうのは今どんなに羽振りよくしてても微塵も価値がない。その時にどう生きたか、何を作ったか、それ以外男の価値を決める物はないんだよ」って言われてたわけ。
それが心に残って、っていう矢先にサンゴの白化現象を見た。
そういうので思い悩んでた時に見たかな。
―――お金を稼ぐ事よりも大事なことがあるんだよね。
金城浩二のココロの旅とは?
自分のままで、出来る事を頑張っていこう。
2010年6月1日(火)
ゲスト
鈴木慶一
1951年、東京都に生まれる。
1972年に“はちみつぱい”を結成。バンドとして、またソロとしても数々のステージやレコーディングをこなす。“はちみつぱい”は1974年にアルバム「センチメンタル通り」を発表し解散。1975年“はちみつぱい”を母体に弟、鈴木博文らが加わり“ムーンライダーズ”を結成。1976年アルバム「火の玉ボーイ」でデビューし、2011年には35周年を迎える。
また、“ムーンライダーズ”の活動と並行して、70年代半ばよりアイドルから演歌まで多数の楽曲を提供するとともに、膨大なCM音楽を作曲。
任天堂より発売されたゲーム「Mother」「Mother2」の音楽は、今でも世界中に多数の熱狂的なファンを持つなど、国内外の音楽界とリスナーに多大な影響を与えている。さらに北野武監督「座頭市」の映画音楽で、第27回日本アカデミー賞最優秀音楽賞、第36回/シッチェス/国際カタルニヤ映画祭オリジナル楽曲賞を受賞した。2008年にリリースしたソロアルバム『ヘイト船長とラヴ航海士』は第50回日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞した。
2010年6月2日には2枚のアルバムをリリースする。1枚目は、北野武監督作品「OUTRAGE」の音楽を担当したオリジナルサウンドトラックアルバム。
2枚目は、今まで手掛けてきた映画、ゲーム音楽を自らセレクトした作品集「Keiichi Suzuki : Music for Films and Games/Original Soundtracks」。
- 1951年
- 東京都に生まれる
- 1971年
- バンド“はちみつぱい”を結成
- 1975年
- “ムーンライダーズ”結成、デビューコンサートを行う
- 1976年
- アルバム「火の玉ボーイ」リリース
- 1991年
- 5年間の活動休止後、アルバム「最後の晩餐」リリース
- 2003年
- 北野武監督「座頭市」音楽担当
- 2005年
- 自らのレーベル“moonriders records”を立ち上げ
「P.W Babies Paperback」をリリース
- 2006年
- ゆかりのミュージシャンとデビュー30周年記念LIVEを日比谷野外音楽堂で行う
アルバム「MOONOVER the ROSEBUD」リリース
- 2008年
- ソロアルバム「ヘイト船長とラヴ航海士」リリース
- 2009年
- ソロアルバム「シーシック・セイラーズ登場!」
moonridersとしてアルバム「Tokyo 7」リリース
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『東京都 大田区 本羽田』
自分の曲を初めて披露した場所
思い出の場所
羽田高校(現 つばさ総合高等学校)
高校時代を過ごした思い出の場所
鈴木慶一のココロの友
田中学
友人
共に高校時代を過ごした仲間
その他、撮影で訪れた場所
『OUR GANG』
東京都大田区西蒲田8-24-7 コーポ西崎1F
TEL:03-3736-9810
どこか懐かしい店内は他では味わえない雰囲気があり、楽しいひと時を過ごす事が出来る30年近い歴史を誇る蒲田の老舗店。
O.Aに入らなかったエピソード
「ミュージカル公演を終えて…」
その後っていうのはもう高校3年なんで皆受験体制に入るわけ。
もうあの一夜の共演は何だったんだろうくらいの、夢か幻かみたいなその消え方が良かったな。
要するにその日はさ、教室でアンコール公演をやって、今で言う打ち上げみたいな事を俺の家でやって、それで終わってその次の日から皆受験体制。って言う事はホント夢の様な一日だった。で、うまくいったと。
何が一番上手くいったかというとだね、見た人はどう思うかわからないけども、クラス全員が高揚したと。
そこが面白かったね。で、俺はどうするんだじゃあ、うん、俺受験しない事に決めたんで、大学は。
非常に暇なんだよ。学校にはあまり行かなくてもいい様な状況になるわけだ。
それで多分その高揚感ね、人に見られて演奏するという事に対する高揚感じゃなくて、何か自分で作ったものを発表する時の高揚感、そしてその後の脱力感、みたいなものは残ったと思う。
それで職業はどうしようか、みたいになってくる。
相変わらずギター弾いたりラジオ聴いたりするわけだよ。冬に向かってね。
冬になって来ると3学期になってほとんど皆学校に来なくてもいい様な状態。行かなくなるね。
行かなくなるけど、たとえば土曜日だったら4時間目終わって行くとか(笑)顔だけ見に行くんだな。何でだか分からないけど。
そんな事をしつつ、偶然にも高校を卒業する直前にあがた森魚さんと出会う。
これはうちのおふくろが蒲田でバイトをしていてそこであがた君もバイトをしていて、「うちの息子が毎日ギターばっかり弾いてて外に出ない。遊びに来たら?」っていうので来た。で、来て話をしたら話があった。
そういう人と出会うのは初めてだし、高校の人たちはミュージカルやったり色んな事やったけど、ちゃんとギターを弾いて自分の曲を作っている人というのは俺以外見あたらなかったんで、そういう人と合うわけだよ。
それでこれはいい機会だと思って外に出る様になった。
たまたまうちの場合は大学行かないで一応浪人という形だよね。
浪人でいいよっておふくろが言ってくれたんで。
その浪人の1年間が勝負だなと思う訳だよこっちも。執行猶予1年。
まあモラトリアム世代ですが、その1年間の間に勉強して大学行くのか、違う高校行くのか、その1年間というのはやたら外に出て、それまで引きこもっていたのが。
まあ基本的にはあがた君に連れられて行くんだけども、たくさんの人に会って、あまりにも衝撃的な1年なんで1年間だけ日記つけてたよ。
色々な出会いがあったり、少し良い楽器を手にしたり、劇的に変わったね。
劇的に変わる大元になってるのは恐らくこの高校にいてね、いい友人がいたってことかな。
その友人と未だに話したり飲んだりする。
それはこの高校にいた頃に戻るという事でもなく。フラットな関係でいられるということ。
音楽をやっている鈴木慶一としてでもなくてね。
この関係が大切だと俺は思うんだよね。
―――あの高揚感が全ての始まりと言っても過言じゃないよね。
鈴木慶一のココロの旅とは?
思い出や記憶っていうものは更新されていくものなんだね。日々更新。
2010年5月25日(火)
ゲスト
寺廻太
崇徳高等学校バレーボール部所属の際、1975年春高バレー、高校総体、国体の三冠を達成する。明治大学ではセンタープレーヤーとして活躍し、1980年NEC男子バレーボール部に入部。日本リーグではオールラウンドプレーヤーとして活躍。1987年コーチに転向。1988年監督に昇格後、Vリーグ3回、全日本選手権4回優勝に導き名将としてその名を馳せる。1996年アトランタ五輪後、全日本の復活を期す切り札として抜群の統率力と斬新さが高く評価され、全日本男子監督に就任。シドニー五輪予選最終戦をもって監督を退任。その後、海外へのプロコーチとしての移籍を希望し、2000年12月韓国プロリーグの強豪チーム 三星火災(サムソン)へプロコーチとして就任。2001年には、イタリアセリアA、フランスプロA、両リーグにおいて単身コーチ留学を経験。
2002年5月からはチャイニーズ・タイペイ男子ナショナルチームの監督に就任。2005年6月からVリーグ女子「JTマーヴェラス」の監督に就任し、5年ぶりに国内で指揮をとり2007年の第13回Vリーグでは、前年6位から準優勝と飛躍を果たした。
- 1958年
- 広島県に生まれる
- 1975年
- 崇徳高校バレーボール部エースとして高校3冠(春高バレー・高校総体・国体)を達成
- 1980年
- NEC入社 バレーボール部に入部
- 1987年
- NEC男子バレーボール部 コーチ就任
- 1988年
- NEC男子バレーボール部 監督就任
日本リーグ優勝(1993年、1995年にも優勝を果たす)
- 1996年
- 全日本男子チーム 監督就任
- 2000年
- 全日本男子チーム 監督退任
韓国・三星火災(男子) コーチ就任
- 2002年
- チャイニーズ・タイペイ男子 監督就任
- 2005年
- Vリーグ女子・JTマーヴェラス 監督就任
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『広島県 広島市 西区』
バレーボール人生の原点の場所
思い出の場所
崇徳高等学校
寺廻の母校
寺廻太のココロの友
『早田功』
友人
高校での三年間同じチームでプレー
その他、撮影で訪れた場所
『お好み焼き 一休』
広島県広島市安佐南区山本4-10-28
TEL:082-874-4751
少し辛めのソースを使用し、一度食べたらクセになる味と、実家のような暖かい雰囲気で、寺廻さんも広島に帰る度に足を運ぶというお店。
O.Aに入らなかったエピソード
「バレーを始めたきっかけは?」
バレーボールを始めたきっかけはですね、ただ単に最初はバレーボールを休み時間とかそういう中で遊びでやってたんですね。
それが中学校2年の夏くらいにですね、バレーボールのミュンヘンの道という実写とアニメの番組がありまして。
バレーブームだったんですよ。で、当時中学校1年から2年の間までは陸上部、陸上やってたもんですから、ただそのバレーブームでね、非常にバレー人気で、面白そうだからやってみようかっていう、本当に取っ掛かりはそうだったんですね。で、バレーを始めました。
それでやっていく内にどんどん好きになりました。中学校3年の時ですかね、ミュンヘンの決勝戦をテレビで見てまして、金メダル取った。日本の男子が初めて。
まあ過去にも現在にも金メダルを取ったのはその大会なんですけど。
それが非常に思い出深く、印象に残ってます。
それで、あーなんかこう、強いチームでやりたいなっていう、そういう気持ちが湧いてきたんですよね。
基本的にあの野球とか、サッカーとかそういう方をやりたかったんですよ。
ただあの中学校に野球部もサッカー部もなかったもんですから、陸上も好きでやってたわけじゃなかったんですね。
足が速くて、それでやってたもんですから。そこにやっぱバレーボールのそういうブームがきて、遊びで実際にやってみたら面白かったんで、本当に始めたきっかけというのはそんなに、「よおし!バレーボールやるぞ」っていう感じではなかったです。
(中学校では)1年間しかやらなかったんですけど、最後の最後に県総体で優勝したっていう事がありましたね。嬉しかったですね。
―――強いチームでやりたいという気持ちが私をここまで成長させてくれました。
寺廻太のココロの旅とは?
今日は本当に一日楽しかったです。
2010年5月18日(火)
ゲスト
塚本晋也
1960年、東京都に生まれる。
14歳で初めて8ミリカメラを手にする。日本大学芸術学部美術学科在学中は、自ら劇団を主宰。同校卒業後、CF制作会社に入社しディレクターとして4年間勤めた後退社。1985年「海獣シアター」を結成し、3本の芝居を興行する。
1986年『普通サイズの怪人』で映画制作を再開、1987年『電柱小僧の冒険』でぴあフィルムフェスティバル グランプリを受賞。
1989年『鉄男』がローマ国際ファンタスティック映画祭でグランプリを獲得し、塚本の名を一躍世界に知らしめることになる。以降もコンスタントに作品を作り続け、監督7作目となる『六月の蛇』(02)でヴェネチア国際映画祭審査員特別大賞を受賞。その他の作品として『東京フィスト』(95)、『バレット・バレエ』(98)、『双生児』(99)、『ヴィタール』(04)、『悪夢探偵』(06)、『悪夢探偵2』(08)など。最新作『鉄男 THE BULLET MAN』は2009年より世界各国の映画祭に出品され、日本では5月22日に公開される。また、この公開を記念し全監督作品をスクリーン上映する「塚本晋也大図鑑」、日本公開版より11 分長い「バレット・バレエ PREMIERE VERSION」初上映などが全国各地で開催される。また、初DVD化される「とかげ」を含む全8作品に特典映像と封入特典が付いたDVD-BOX「塚本晋也 COLLECTOR’S BOX 2001-2010」も5月28日にリリースされる。
- 1960年
- 東京都に生まれる
- 1987年
- 『電柱小僧の冒険』でぴあフィルムフェスティバルグランプリ受賞
- 1989年
- 『鉄男』公開、ローマ国際ファンタスティック映画祭グランプリ他受賞
- 1991年
- 『ヒルコ/妖怪ハンター』公開
- 1992年
- 『鉄男II/BODY HAMMER』公開
- 1995年
- 『東京フィスト』公開
- 1999年
- 『双生児』公開
- 2000年
- 『バレット・バレエ』公開
- 2003年
- 『六月の蛇』公開
- 2004年
- 『ヴィタール』公開
- 2007年
- 『悪夢探偵』公開
- 2008年
- 『悪夢探偵2』公開
- 2010年
- 『鉄男 THE BULLET MAN』公開
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『埼玉県 川口市 領家』
映画監督としての出発点になった場所
思い出の場所
川口市の工場街
映画「鉄男」の撮影を行った場所
塚本晋也のココロの友
『田口トモロヲ』
友人
映画「鉄男」にて主演を演じる
その他、撮影で訪れた場所
『BAR Bum Ble Bee』
東京都渋谷区恵比寿1丁目12-5 萩原ビルB1F
TEL:03-3449-9497
お洒落な店内とフレンドリーなバーテンダーが日頃のストレスを忘れさせてくれる隠れ家的なお店。
O.Aに入らなかったエピソード
「CMの会社に居たことが良い経験になった」
大学を卒業する時にですね、本当は1本自分が映画を作って映画監督になりたかったんですけど出来なくてですね、進路を色々迷ったんですけど、どうしても映画監督になりたいんだったら助監督になるっていう道もあるんですけど、当時すでに映画業界っていうのは今から25年も前ですけど、映画会社が映画を作るというシステムはすでに崩壊していてですね、助監督という仕事はなくはないんですけどもの凄い倍率で、例えば50人何十人の中で一人入って、僕のイメージでは何十年も助監督さんをやって監督になった時にはもう青春映画が取れないんじゃないかとかですね、漠然と暗いイメージが映画界にあって、で、一方CFの会社っていうのは同じ様にフィルムに触れる仕事でありながら、何かそのクリエイティブティが非常にあってですね、明るいものに自分には思えたんで.最終的にはCFの会社に入ったんですけど、面接をして。
なんとか入る事ができて、そこで演出助手、演出家になりたかったので1年半くらいむっちゃ死にものぐるいでやって、演出家になれて。
1年半ですから22で大学卒業して入ったので23歳くらいで演出家になって、そこからコマーシャルを作ることになるんですけど。
CMの仕事はですね、演出の助手の時は死にものぐるいでやっててですね、実を言うと早いうちに演劇とか自分の映画を作りたくなっちゃってたんですけど、ただまあCFの会社ちょっといてすぐ辞めちゃうって言うのも良くないっていうかかっちょ悪い事だったんで石の上にも3年ということで3年、とにかく3年は絶対居ようと思って、最終的には4、5年いるんですけど、その間には演出家になれて、コマーシャルも作れて、親も嬉しい訳ですけど、自分が作ったものがテレビで流れるわけですから、自分自身もCF会社に居た時に勉強になる事はすごくたくさんあってですね、具体的には35ミリフィルムっていうのに憧れててですね、それは8ミリフィルムしか作ってなくて35ミリっていう劇場のフィルムを触りたいっていうのがすごくあったんで、CMの会社行くと35ミリフィルムが触れるどころか皆肩に巻いちゃったりとかしてですね、切る時にこうスプライサーっていうので切らないでばちんって手で切っちゃったりするくらいフィルムと皆親しんじゃってるんで、そんな世界に入れたのがまず嬉しくて、フィルムに触れたのが嬉しかったんですけど、あとはまあコマーシャルの世界ってある種厳しくもあるので、立派な会社の代理店の人と自分たちプロダクションの人としのぎを削る様なやりとり、コンセプトを考えてそれから商品を映像化するための道筋の持って行き方の厳しい感じとかは非常に学んだっていうのが1個。あとあとの自分にはすごい為になりましたね。
―――自分で作ったものがテレビで流れる、嬉しいことですね。
塚本晋也のココロの旅とは?
また「鉄男1」を作ってしまいそうなくらいの気持ちになりましたね。
2010年5月11日(火)
ゲスト
大林宣彦
1938年、広島県に生まれる。
3歳のときに自宅で出会った活動写真機で、個人映画の製作を始める。
1964年頃からテレビCMの制作に携わり、チャールズ・ブロンソンの“マンダム”を始め、ソフィア・ローレン、リンゴ・スターなどを起用し2000本以上もの作品を生み出す。
1977年に公開された『HOUSE/ハウス』で劇場映画に進出。
以降、『ねらわれた学園』(1981年)、『ふたり』(1991年)、『はるか、ノスタルジィ』(1992年)、『あした』(1995年)をはじめとする数多くの作品を発表。なかでも、故郷である尾道で撮影された『転校生』(1982年)、『時をかける少女』(1983年)、『さびしんぼう』(1985年)は“尾道三部作”と称され、多くの映画ファンに愛されている。
2003年第21回日本文芸大賞・特別賞を受賞した『日日世は好日』など、著書も多数発表。2004年春の紫綬褒章受章、2009年秋の旭日小綬章受章。
- 1938年
- 広島県に生まれる
- 1977年
- 『HOUSE/ハウス』で劇場映画に進出
- 1982年
- 映画『転校生』公開
- 1983年
- 映画『時をかける少女』、『廃市』公開
- 1985年
- 映画『さびしんぼう』、『姉妹坂』公開
- 1988年
- 映画『異人たちとの夏』公開(毎日映画コンクール 監督賞 受賞)
- 1992年
- 映画『青春デンデケデケデケ』公開(文化庁優秀映画作品賞 受賞)
- 1998年
- 映画『SADA』公開(ベルリン国際映画祭 国際批評家連盟賞 受賞)
- 2004年
- 映画『理由』公開(日本映画批評家大賞 監督賞 受賞)
- 2007年
- 映画『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』公開
映画『転校生 〜さよなら あなた』公開
- 2008年
- 映画『その日のまえに』公開
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『広島県 尾道市 土堂町』
映画に目覚めた原点の地
思い出の場所
18歳まで過ごした大林の生家
初めて映画に出会った場所
大林宣彦のココロの友
『村上禎一郎』
友人
大林と高校生時代を尾道で過ごす
O.Aに入らなかったエピソード
「僕は医学の道の映画科をやっている」
我が家の中でこれと出会ったと言う事が僕を映画監督にしないで、そういう職業につかないで、まあ一生これ(フィルムの映写機)で遊んでいられればいいやという事でね、映画作家という風に名乗ると言うのはそっからですよね。
ただ大事な事はね、これ(フィルムの映写機)で遊ぶと言う事はフィルムを切り刻んだり、物を壊して遊ぶ訳ですよ、子供の遊びと言うのはね。
当時は勿体ないの時代ですから、物を壊したりするともう叱られる、お茶碗にご飯粒一つ残してもご飯を食べさせて貰えないという時代だったけれども、これで遊んでどんなにフィルムを壊しても「面白いの〜」と言って叱られない、だから映画と遊んでれば生涯叱られなくて幸せなんだなあと思ったんですよね。
それはね、大人がね、物やお金よりも子供の将来を潰す事が一番勿体ないと思ってくれてたんだと思うのね。
そういう大人に囲まれていたから僕は医者にならないで映画と一緒に生きていけるという人生を送れたんだと思ってますけどね。
だから日本が戦争に負けた後でね、うちの父親も医学博士になりたい夢を、大学からそのまま戦場に連れて行かれて、一遍研究室を出ると研究室に戻れませんからね、尾道のすぐ下にある病院の開業医の院長として僕を育ててくれたんだけども、平和であるってことは、自分の夢や願いが果たせる事だという実感が父親にあったんでしょうね。
だから「代々の医者を継ぐよりは自分の好きな映画の道を真っ直ぐ歩め」と、「それが平和ということだ」と、「どこかで誰かが見ていてくれるから決して孤独な道じゃないぞ」と言ってくれたのが僕をこの道で生きる力にしてくれたと思いますよ。
父親が晩年年老いてこの縁側に座って、「お前を丈夫な体に産んでやった事だけがわしの手柄で、線路はお前が全部敷いたろう」と。
「自分の人生の線路は自分で敷いて歩くのが平和だ」と。
「わしらはねじ曲げられて戦争に行ってしもうて不幸じゃったが、お前は幸せな映画を作れよ」と言われてね。
僕は遂には医者にはなりませんでしたが、72になって今思うのは、もし医者の世界に映画科という科があればね、僕は医学の道の映画科をやっていたんだと。
だから良く効く薬の様な、あるいは巻き心地の良い包帯の様なね、映画を作ってやろうと。
それだけはね自分で決めてね。
フィルムも包帯みたいなもんですよ。
巻き心地の良い包帯の様なね。だから僕は医者をやってると思います。
医者を映画でやっているんだというのが72歳の今の実感ですけどね。
―――平和であるって事は、自分の夢や願いが果たせるという事ですよ。
大林宣彦のココロの旅とは?
幸せな一日でした。
2010年5月4日(火)
ゲスト
清水崇
1972年群馬県に生まれる。
1991年大阪の近畿大学にて演劇を専攻。1995年故郷・群馬県の製作映画『眠る男』に見習いスタッフとして参加。
1997年助監督業の傍ら、映画技術美学講座(現・映画美学校)に通い、映画監督 黒沢清、青山真治、脚本家 高橋洋らの講義を受ける。
1998年黒沢清、高橋洋監督の推薦で関西テレビの短編枠で監督デビュー。
2000年Vシネマ『呪怨』が口コミで話題となり、『富江 re-birth』で劇場映画デビュー。劇場版『呪怨』(2002年)、『呪怨2』(2003年)が立て続けにヒット。これを受け、ハリウッドにてサム・ライミ監督プロデュースの元『The Grudge』(2004年)を監督。日本人監督初の全米興行収入No.1を2週連続で果たす。
同年公開された『稀人』はブリュッセルの映画祭にてグランプリ受賞。『The Grudge2』(2006年)では、2作連続の全米1を獲得。
他の代表作に『戦慄迷宮』(2009年)、『幽霊VS宇宙人』シリーズ(2000〜2007年)など。
また近年では、俳優として『東京残酷警察』(2008年)、『吸血少女VSフランケン少女』(2009年)、『劇場版:古代少女ドグちゃん祭り』(2010年)などに出演。
今年、深夜連続ドラマ『SOIL』(WOWOW)では荒唐無稽なミステリーにも挑戦。
現在、『戦慄迷宮2』及びハリウッド製作・日本のコミック原作による『寄生獣』などを準備中。
日本を始めハリウッドほか海外において、また様々なメディアで活躍を続けている。
- 1972年
- 群馬県に生まれる
- 1998年
- ホラーオムニバス「学校の怪談G」(関西テレビ)の
短編枠にて『片隅』、『4444444444』を脚本・監督
- 1999年
- Vシネマ『呪怨』、『呪怨2』を脚本・監督
- 2000年
- 『富江 re-birth』で劇場用映画デビュー
- 2002年
- 劇場版『呪怨』を脚本・監督
- 2003年
- 劇場版『呪怨2』を脚本・監督
- 2004年
- ハリウッドにて『呪怨』のリメイク版『The Grudge』を監督
超低予算の日本映画『稀人』を監督
初の全面企画・監修を勤めたTV連続ホラーコメディ・ホーム・ドラマ『怪奇大家族』を脚本・監督
- 2005年
- 初の日本全国公開作品『輪廻』を脚本・監督
- 2006年
- ハリウッドにて『The Grudge2』を監督
- 2009年
- 日本初の全篇3D映画「戦慄迷宮3D」を監督
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『群馬県 前橋市 北代田町』
映画に憧れを抱いた場所
思い出の場所
「畳屋」を営む清水の実家
暖かい家族に囲まれて育った場所
清水崇のココロの友
『清水洋』
父
その他、撮影で訪れた場所
『ロマン』
群馬県前橋市北代田町627-3
TEL:027-232-5127
広い店内にはダンスフロアがあり他のお客さんと一緒に盛り上がることができる、アットホームな雰囲気のお店。
O.Aに入らなかったエピソード
「これからの未来像は?」
あんまり大げさな野望みたいなものは無いんで、それはそれで良くないなあとは最近思い始めてるんですけど。
やっぱりせっかくそのアメリカ映画もオファー貰ったりできる幸運な立場になったので、なるべく自分でやりたい企画を自由に通せるような、規模もそうですけど…規模が大きければ良いわけじゃないんですけどね。
それはそれで面倒臭いんですけど。という所で、日本人の監督として進出していければなあという大きなものもありますし。
後は、両親や知り合い、友達にむけてもそうですし、一般の人に対してもそうなんですけど、ホラー以外でも代表作を作ってやれるという所をちょっと見せつけたいなというのが。
完全にホラー専門監督だと思われてるんで。
もういつまでも「あ、呪怨の監督ね」って言われるのを自分で払拭しないといけないなって。
それは自分でも飽きが来るので。
本当はシリーズ化とか続編とか続けて他人に飽きられるよりも先に自分が飽きたいんですよね。
結構飽きっぽいので。それはコメディーなのかラブストーリーなのかファンタジーなのか分からないですけど。
映画以外も本当はやりたい事山ほどあるんで。
絵本を描いてみたいんですよね。それはずっと昔からある思いなんですけど。
まあ好きな事をやって、無理無く食べていければいいなって(笑)
―――ホラー以外の代表作を作って大衆に見せつけてやりますよ。
清水崇のココロの旅とは?
やっぱり自分を育ててくれた所なんでしょうね。
2010年4月27日(火)
ゲスト
拓未司
1973年、岐阜県に生まれる。
大阪あべの辻調理師専門学校を卒業後、神戸のフランス料理店に就職し、10年ほど様々なお店で飲食業に従事。2005年より作家を目指しアルバイト生活を送る。2007年第6回「このミステリーがすごい!」大賞(新しい才能を発掘、育成することを目的として行われている)を受賞した『禁断のパンダ』が宝島社より2008年1月刊行されデビュー。
その他の著書に『蜜蜂のデザート』(宝島社)がある。
- 1973年
- 岐阜県に生まれる
- 2007年
- 小説『禁断のパンダ』が
第6回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞
- 2008年
- 宝島社より『禁断のパンダ』が刊行されデビュー
2作目『蜜蜂のデザート』刊行
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『大阪府 大阪市 阿倍野区』
今の自分を作ってくれた場所
思い出の場所
大阪あべの辻調理師専門学校
料理人を目指して学んだ場所
大阪府大阪市阿倍野区松崎町3
TEL:0120-24-2418(フリーダイヤル)
拓未司のココロの友
『濱部日出夫 美智子』
両親
O.Aに入らなかったエピソード
「小説家を目指していたことは親に内緒だった」
「このミステリーがすごい!」大賞を頂いた時は、両親にすぐに電話しました。
料理人を辞めて、小説家を目指してるということは妻と、近しい友人しか知らなかったので両親に報告しないと、と思ってすぐに電話したんですけど、その時は逆にすごく怒られてびっくりしました。
喜んでもらえると思って電話したんですけど。「30過ぎて嫁もいるのに迷惑かけてなにしてるんだ」って。
小説を書いてることは両親に内緒にしてました。
30過ぎてアルバイトしてるっていうのが自分でも負い目に感じてまして。
大賞取った時にはすぐに電話したんですけど、あまり信じてくれなくて。
実際に本が出て、それを読んで頂いた時に、それが本当だということを信じてくれて、「面白かった」と言ってくれました。
今ではすごい応援してくれています。具体的にどこが面白かったということはなかったんですけど、「思ったより面白かった」と言ってくれました。
それを聞いたときは「そんなもんか」と思いましたけど。
多分小説家を突然目指した人間がどんな作品を書いたんだろうと思って読んだと思うんで、それが「意外と小説になってるじゃないか」と思ったんだと思います。
「面白い」って言ってくれたのは嬉しかったんですけど、やっぱり親の言う事なんで、完全には信じきれない部分もあるんで…今後もうちょっと頑張らなきゃいけないかな、と思ってます。
これからもっと頑張って良い作品書いて、いつか傑作と呼ばれるものを書いて、両親に本当に心から認めてもらいたいと思います。
―――いつか必ず傑作を書きあげてみせます。
拓未司のココロの旅とは?
新たに小説家として頑張っていく意欲が湧いてきました。
2010年4月20日(火)
ゲスト
益子直美
1966年、東京都に生まれる。
中学校へ入学と同時にバレーボールを始め、中学・高校と全国区で活躍する選手となる。高校3年の時には、日本代表選手として世界選手権やワールドカップへ出場。「下町のマコちゃん」のニックネームで女子バレーボール界を席巻。高校卒業後は、イトーヨーカ堂へ入社し、社会人チームで活躍。1990年、イトーヨーカドーのエースとして、念願の日本リーグ初優勝へ導く。1992年に現役引退後、イトーヨーカドーアシスタントコーチを務める。現在はタレント、スポーツキャスターとして活躍中。
- 1966年
- 東京都に生まれる
- 1979年
- 中学校へ入学と同時にバレーボールを始める
- 1981年
- 東京都選抜、中学全日本選抜に選ばれる
- 1982年
- 共栄学園高校入学
- 1984年
- 高校3年生の秋に、全日本(ナショナルチーム)代表選手となる
- 1985年
- イトーヨーカ堂入社
- 1986年〜
- 世界選手権やワールドカップの代表に選ばれる
- 1990年
- 日本リーグ初優勝
- 1992年
- 現役引退
イトーヨーカドーバレー部のアシスタントコーチを務める
- 1993年
- 芸能界へ転向
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『東京都 葛飾区 金町』
バレーと出会った運命の地
思い出の場所
金町中学校
バレーに明け暮れた場所
益子直美のココロの友
『石田義隆』
恩師
中学時代の益子を指導したバレー部監督
その他、撮影で訪れた場所
『旬粋 圓』
東京都葛飾区亀有4-36-3 ロフティハーモニー亀有102
TEL:03-3604-5955
10年以上銀座で和食の経験を積んできた料理人が吟味して仕入れた新鮮な食材に、丁寧に仕事された料理の数々。住宅街の真ん中にあって穏やかに落ち着いて食事ができるお店。
O.Aに入らなかったエピソード
「体が大きいことが武器になった」
小さい頃はもう本当に暗い、おとなしいというか、存在感のない子でしたね。大きかったんです。体が。
小学校に上がった時は、やっぱり男の子よりも頭一個以上大きい状態で、「お前先生かよ!」みたいなことを言われたり(笑)
「巨人」でしょ、「怪獣」「恐竜」「ガリバー」「色つき電柱」「キリン」は可愛い方だったな。
色んな長い物とか大きい物を例えてあだ名をつけられて。まあからかわれてたんでしょうね。
それでやっぱり私としては大きいのは欠点なんだと思って、休み時間もトイレに立たないくらい、歩くのが嫌だったんです。目立つんで。
小六の時で163cmとか…まあ今の子供達に比べたら普通かもしれないんですけど、大きかったです。
辛かったですね。学校大っ嫌いでしたから。出来れば休みたい。
小学校から仮病使って、例えば茄子の漬け物が大好きで朝によく出して貰ってたんですけど、茄子の種を一粒一粒取って顔に付けて、「病気になった」とか(笑)
そんなことをして、どうにかして学校を休みたいということを考えてましたね。
でもバレーを始めてからは、身長がもっと伸びたい、ネットからもっと手を出したいという意欲が出て来て、体が大きいことがいつの間にかすごく武器になって、長所に変わってたんですね。
それで、モヤモヤしていた部分が全く無くなってしまって、まあ気がついたってことですよね。
背が大きいのは欠点じゃなかった。長所で、私の個性だっていうことに。
そこからはもう毎日「身長測りたい」「あ、伸びた伸びた」っていう感じでしたね。
性格的にもガラッと変わりましたね。
明るくなったし、クラスの人気者にもちょっとずつなってきて。友達もすごく増えて…。
―――バレーを始めてから、私の運命が変わりました。
益子直美のココロの旅とは?
基本は大事。改めて感じました。
2010年4月13日(火)
ゲスト
azumi
北海道札幌市に生まれる。
個別に活動していたヴォーカルAzumi とギターのso-toが、それぞれ同時期に別々に応募したSony Musicのオーディションをきっかけに知り合い、1997年ユニットを結成。ユニット名を“Wyolica(ワイヨリカ)”に決定し、1999年5月シングル「悲しいわがまま」でデビュー。優しく透明感のあるヴォーカルと、穏やかで切ない歌詞・メロディーで人々を魅了している。ソロ活動や他のアーティストとのコラボレーション、テレビ番組等のナレーションを担当するなど幅広く活動している。昨年「Wyolica」は10周年を迎え、ますます今後の活動が注目を集めている。
- 1997年
- ユニット「Wyolica(ワイヨリカ)」を結成
- 1999年
- マキシシングル「悲しいわがまま」でデビュー
- 2000年
- 1stアルバム「Who said “La La…”?」リリース
- 2004年
- ベストアルバム「wyolica Best Collection1999-2004
〜ALL THE THINGS YOU ARE〜」リリース
- 2005年
- ソロとしての1stシングル「Kick up Kiss」をリリース
ポエトリーリーディング「POEMIX II」(詩:森 雪之丞、演出:岸谷五朗)で初舞台
- 2009年
- 10周年を迎え記念シングル「僕は忘れない」「サヨナラ」をリリース
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『東京都 港区 南青山』
成功への道を切り拓いた場所
思い出の場所
レコーディングスタジオ
デビュー前から使っていたスタジオ
azumiのココロの友
『大原正裕』
恩師
azumiの才能を見出した音楽ディレクター
その他、撮影で訪れた場所
『ひごの屋 表参道店』
東京都港区南青山3-18-17 エージンビルB1
TEL:03-3423-4461
岩手から毎日直送で送られてくる新鮮な鶏肉を使用した料理が楽しめ、仲間と和気あいあいと過ごしたいときにぴったりの雰囲気のあるお店。
O.Aに入らなかったエピソード
「自分は歌が下手だと思っていた」
子供のころは、根は明るいんでしょうけど、なんか一歩踏み出せないというか、自分をアピールする事が苦手な子供で、負けん気は強かったんですけど、プライドが高いというか…ちょっと引っ込み思案なところもあったりとかして。
音楽に対しても、父がとっても歌が上手だったので、それに対して凄くコンプレックスがあって。
自分は凄く歌が下手だと思っていたんですけど…小学校時代もずっと音楽の時間が大っ嫌いで、とにかく人前で歌を歌うという事が嫌いで、恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがなくて、震えながら歌っていたりしたんですけど。
小六かな?小六の、ホントに卒業前の歌のテストの時に、凄く緊張しながら歌のテストをやっていたら、歌い終わった後に担任の先生が、「アンタいい声してるね。」って、言ってくれたんです。
それまで私は下手だから歌っちゃいけないんだと思っていたんですけど、その先生の一言でとても解放されて、「あ、私もしかして歌っていいのかな?」って思って、そこからちょこちょこ、中学に入ってからこしょこしょ歌ったりとかしてましたね(笑)
それから歌に興味を持ち始めまして、とても歌が好きになって、ずっと歌ってましたね。
―――あの一言が無かったら
歌を好きになってなかったかもしれませんね。
azumiのココロの旅とは?
新しい自分が始まるな、という事がわかりました。
2010年4月6日(火)
ゲスト
真矢
1970年、神奈川県に生まれる。
3歳より和太鼓や鼓などの伝統楽器を始める。
1989年からLUNA SEAのドラマーとして活躍。
2000年のLUNA SEA終幕後、2001年からソロ・アーティストとして活動。
自身の核である『ドラム』を中心に、数多くのアーティストのライブ・ツアー、レコーディングへ参加する。
現在、軽快な話術を活かし、TVやラジオなど多岐に渡り活躍中。
- 1970年
- 神奈川県に生まれる
- 1989年
- LUNA SEAのドラマーとして活動を開始
- 1992年
- アルバム『IMAGE』でメジャー・デビュー
- 1994年
- 4枚目のシングル『TRUE BLUE』リリース
(オリコン初登場1位を獲得)
- 1995年
- 初の東京ドーム公演(即日 SOLD OUT)
- 1997年
- 期間限定のソロ活動に入る
- 1998年
- LUNA SEA 再始動
- 1999年
- 10周年記念の野外ライブで10万人を動員
- 2000年
- LUNA SEA「終幕」 12年の活動を締めくくる
- 2001年
- ソロ・アーティストとして活動を開始
内容
あなたのココロの故郷はどこですか?
『東京都 目黒区 目黒』
プロを目指しバンドに明け暮れた場所
思い出の場所
LIVEハウス鹿鳴館
LUNA SEAがアマチュア時代に活動した場所
東京都目黒区目黒1-5-17 山崎ビルB1F
TEL:03-3494-1801
真矢のココロの友
『SUGIZO』
バンド「LUNA SEA」のギタリスト
その他、撮影で訪れた場所
『BAR12』
東京都世田谷区太子堂2-7-3 橋和屋東京1F
TEL:03-6450-7212
様々なライティングとインテリアにこだわった素敵な空間で、落ち着いてお酒を楽しむことができるお店。
O.Aに入らなかったエピソード
「一緒にプロにならないか?」
音楽の出会いはね、実はロックとか全然関係無く日本の古典芸能で、出会
ったというより無理矢理やらされてたんですね、小さい頃から能を。
で、全然記憶がないくらいからやらされてるっていう、いつの間にかやってた。
うちの親父が能楽師で、継がせたかったんでしょうね。
舞台に出てたのはたぶん…3歳くらいからやって5歳くらいから舞台に出てたと思うんですよ。小学校6年まで出てましたね。
舞台は子供がやるような役をやってたんですけど。祭り囃子は6歳の頃からやってたの。
それは地元の生まれ故郷がすごくお祭りが盛んだったんですよ。
小さい頃は太鼓とか、鳴りものっていうのはすごく好きで、それは自分から志願してやってましたね。
そういった能の鼓であったり締め太鼓とかが今のドラムの原点だったかもしれないですね。
小さい頃から物を叩くということが好きな子で、能とはまた別の話になるんですけど、親戚の家に行っててあまりにも物を叩く、机とか箸とかでガンガン叩くって。
そしたら親戚の隣のおじさんがですね、太鼓を買ってくれたんですね。
「これを叩け」って言って。
全然知らないおじさんが(笑)…ってくらい小さい頃からトットコトットコやってたみたい。
高校3年のもう卒業間近かな?もうちょっと前かな?突然SUGIZOが家に泊まりに来たんですよ。
普段からバンドの練習とかでよく家に来てたんですよ。
だからその流れで何か話があるのかな?と思ったんですけど、一晩中かけてですね、「一緒にプロにならないか?」と、説得をされたんですね。
初めはこう、何夢見てんだろうなぁとか思ってたんですよ。
でも話してるうちに、こいつと一緒に夢を追っかけるのも悪くないなぁというか、面白そうだなぁと思って。
よし、じゃぁ一発その音楽っていうのに懸けてみるか!というなんかその、人生の転機になるというか、そういう日はあった。
もしかしたらSUGIZOがそのとき泊まりに来てそのことがなければ、今の俺は無いですよね、もちろん。
―――あの日があったから今ここに俺がいるって感じですよね。
真矢のココロの旅とは?
もっともっと頑張ってやろうかなと思いました。