隠された大地震…“南海トラフ”震源の「昭和東南海地震」 戦争末期に発生で和歌山などで甚大被害 マグニチュード7.9で犠牲者1200人以上もほとんど報道されず 終戦77年の今、当時の被災者たちの「証言」 その真実とは? 2022年08月17日
太平洋戦争の末期、紀伊半島沖合の南海トラフを震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生し、1200人以上が亡くなりました。
しかし、当時被害はほとんど報道されることなく、“隠された地震”と呼ばれています。どうして被害は隠されたのか?終戦77年を迎え、その背景に迫ります。
■テレビや新聞で地震などのとき…今では当たり前の災害報道
災害があった時、新聞社が駅を行き交う人に「号外」を配ったり、テレビでは「地震情報」などの速報を出したりするなど、視聴者や市民に対して、さまざまな形での災害報道が今では当たり前に行われています。
■戦争末期に発生したマグニチュード7.9「昭和東南海地震」 和歌山・那智勝浦町にも“すさまじい揺れ”そして津波
1944年12月、太平洋戦争末期に発生したマグニチュード7.9の「昭和東南海地震」。大きな被害が出たにもかかわらず、ほとんど報道されませんでした。
8歳の時、和歌山県那智勝浦町でこの地震を経験した田中弘倫さん(86)。学校から帰宅した後、“すさまじい揺れ“を感じたといいます。
【田中弘倫さん(86)】
「四つんばいになって家から離れた。10mくらい。後ろを振り返ったら家がこんなに揺れていた。母親に引っ張られてこの道をずっと走った」
–Q:山の方へ?
【田中さん】
「山の方へ走った」
命からがら高台まで走って母親と避難した田中さん。そこで、生まれて初めて津波を目の当たりにしました。
【田中さん】
「(水平線)がギザギザに見えて海の色がこげ茶色に見えた。ドドドと押し寄せてくる。もう絶対忘れない。あの波はいまだに鮮明に残っている。(テレビで)東日本大震災の津波見た時と同じだった」
この地域には5mの津波が押し寄せ、50人以上が死亡したとされています。
しかし…
-Q:地震や津波の後、学校で話をしましたか?
【田中弘倫さん】
「全然なかった。聞いたことがなかった。話題にならなかった一つも」
“地震の話はしてはいけない”と地域全体がそんな空気に包まれていたと言います。
■大地震翌日…新聞の1面には軍服姿の昭和天皇 地震記事は“わずか”なスペース
当時、この災害はどのように報じられたのでしょうか。
地震翌日の新聞を見てみると…全国紙の一面はどれも軍服姿の昭和天皇の姿が大きく掲載されています。
一方、地震についてはわずかなスペースで「空襲の体験を得てきた一般人の待避はまず順調であった」などと記載されているだけで、詳細な被害は書かれていません。
紀伊半島の沖合、いわゆる南海トラフを震源とし、和歌山、愛知、静岡などで1200人以上が死亡、およそ2万棟の家屋が全壊したと推定される大災害にもかかわらず、国民にその全容が伝えられることはなかったのです。
■犠牲者1200人超えも…なぜ地震は隠された? “東洋一”の「中島飛行機半田製作所」も被害 「一切言うな」
いったいなぜ、地震は「隠されてしまった」のか?最大の被害が出たとされている愛知県へ向かいました。
【宇都宮雄太郎記者 リポート】
「愛知県の西部、半田市に来ています。目の前に見えているのが、半田市役所なんですが、実は戦争当時この場所は航空機を生産する軍需工場でした」
当時、“東洋一の近代工場”と呼ばれた「中島飛行機半田製作所」。敷地内にある工場のうち、「山方工場」では攻撃機「天山」と偵察機「彩雲」という世界最高水準の性能を誇る機体が作られていました。
工場で働くのは、ほとんどが12歳から17歳までの生徒たち。各地の学校から動員され、生産を支えていたのです。
しかし…地震で「山方工場」が倒壊。生徒96人を含む153人が死亡したのです。
京都の中学校から学徒動員されていた川本脁万さん(94)。当時、倒壊した工場にはいませんでしたが、地震が起きた日の夜、同級生が亡くなったことを知らされました。
【京都から学徒動員・川本脁万さん】
「山方工場が倒壊して13人がなくなったと(聞かされた)。その夜、半田市内のお風呂屋さんで京都三中の同僚の死体が安置されて。傷がつかないように交代で見張りをした記憶がある」
これだけの被害があったにもかかわらず、川本さんは数日後、工場に来ていた教師から“次のように言われた”と言います。
【京都から学徒動員・川本さん】
「しゃべると秘密に触れるから、特に中島飛行機がどう壊れたということは『一切言うな』と」
また、当時、山方工場にいた杉江久男さんは、“戦争中の暗黙の了解”として、 周囲に地震の被害を話そうとしませんでした。
【山方工場にいた 杉江久男さん】
「これはえらいことだな、となっていたけど、あまりしゃべらない方がいいなと思った。暗黙にあまり言わない方がいいだろうと自己規制ですね。あちこち話をしない方がいいと」
■戦時下の“新聞”情報統制 国民も心を縛られる 「お国のためにならないことは口にしちゃいけない」
被害を目にした当事者たちが口をつぐんでいた実態。これまでに300人以上の被災者から話を聞いてきた西まさるさんは、国民が自分たちで情報を統制するような動きが各地で起きていたと指摘します。
(西まさる・高田みのり「戦時下の東南海地震の真相―中島飛行機半田製作所を中心に」より)
【はんだ郷土史研究会・西まさるさん】
「周りがそういう雰囲気になっていた。言っちゃいかんと、お国のためにならないことは口にしちゃいけないんだと」
そして、新聞社が被害の全容を伝えなかった理由も“情報統制”でした。
極秘と書かれた政府の日誌。
地震当日、新聞社に出された通達には
【勤務日誌】
「軍の施設や軍需工場の被害等戦力低下を推察できるようなことは掲載しない」
「名古屋・静岡など重要都市の被害が甚大であるような取り扱いをしない」
【はんだ郷土史研究会・西まさるさん】
「米軍にこっちの基地が壊れたとか要塞がなくなったとか、トーチカ(軍事防御陣地)がなくなったとなれば、(敵国が)すぐにでも上陸してくる、それを隠したかった。誰が一番ひどいことになったかというと、家の下で助けてって言っているおばさんや子どもやらたくさんいたはず。ところが、(地震が)なかったことにされているから、誰も助けに行かない。昭和東南海地震が戦時下でなかったら、被害の全容はもっとはっきり見えていた。助けられた命もずいぶん多かったと思う」
戦争に勝つために、誰もが心を縛られていた時代でした。
■和歌山県那智勝浦町にある“石碑” あのときの地震「風化させない」 被害の歴史伝えていく…
8歳の時、和歌山県那智勝浦町で東南海地震を経験した田中さん。
【田中弘倫さん】
「大津波記念碑」
終戦後に建てられた石碑には、この周辺まで津波がきたことが記されています。
地震を風化させないように…田中さんは被害の歴史を伝えていこうとしています。
【田中弘倫さん】
「この辺りで住んでいた人が戦争中で大きな音がしてびっくりして爆弾が落ちたと(思った)。慌てて防空壕に入ったと。その中にグワーって津波が入ってきた。溺れて全員死んだ」
【石碑の近くに住む人】
「勘違いして」
【田中弘倫さん】
「そういう記録がある。若い人には伝わっていないやろ、あんまり?」
【石碑の近くに住む人】
「そうですね。知らないですね」
【田中弘倫さん】
「だから怖い」
戦時下で隠された地震「昭和東南海地震」。一度は消えかかった災害の記憶、決して忘れてはいけません。
(2022年8月16日放送)