迫られた「命の選別」トリアージがなかった時代「治療をやめられなかった」3年目医師 震災を知らない世代・山之内すずさんが聞く【震災30年つなぐ未来へ】 2025年01月14日
山之内すずさんが、ふるさと神戸をめぐる特別企画「震災を知らない世代が歩く1.17」。
震災当時、壮絶な医療現場で命の選別を経験した医師を訪ねました。 30年前に失われた多くの命と向き合います。
■追悼や復興への思いが込められた「希望の灯り」
【山之内すずさん】「(神戸市・東遊園地)このへんも久しぶりに来た気がします。『希望の灯り』。この灯りは奪われたすべてのいのちと生き残ったわたしたちの思いをむすびつなぐ」
追悼や復興への思いが込められた「希望の灯り」。25年も前から、神戸の街を照らし続けてきました。
【山之内すずさん】「このへんにはよく来ていたんですけどね。でも見てなかったなあ」
モニュメントの地下にあるのは、「瞑想空間」。震災で亡くなった人の名前が刻まれています。
【山之内すずさん】「割と最近置かれているお花もありますね。上から見ることはあったけど、下りてきたことなかったです、私。やっぱりどこか他人事っていうのはあったんでしょうね。外に出て友達と遊んでいるときに『見に行こか』となるほどの意識は持っていなかった」
【山之内すずさん】「たくさんの名前の方が並んで、地震をきっかけに命を落としたんやって思うと、改めて忘れちゃだめだと思うし、もしかしたら自分のルーツがある方もここに名を連ねている方もいらっしゃるかもしれない」
■阪神淡路大震災をきっかけに日本で普及したともいわれる「トリアージ」
30年前、失われた多くの命。その時、「命の選別」を迫られた医師がいます。
現在、神戸市の病院に勤める水谷和郎医師。30年前は、淡路島で唯一の公立病院だった県立淡路病院にいました。
水谷さんはまず、現代の災害医療に欠かせない「あるもの」を見せてくれました。
【水谷和郎医師】「これ見られたことありますか?」
【山之内すずさん】「実物は初めて見た。ドラマとかで見たことあるなっていう」
【水谷和郎医師】「これはいわゆるトリアージタッグ。まず歩ける人を『緑』の色分けにする。手をにぎってくださいって言ったのに応じるか応じないかで『赤』と『黄色』。呼吸がない人は『黒』。重症度によって分けるっていうやり方」
【山之内すずさん】「当時、阪神淡路大震災があったときも使われていた?」
【水谷和郎医師】「残念ながらその当時はなかったんです。なかったのでどうしてより分けをしていったらいいか、本当に分からなかった時代です」
トリアージは、阪神淡路大震災をきっかけに日本で普及したともいわれ、2005年のJR福知山線脱線事故でも実施されました。 日本の災害医療で「1人でも多くの命を救うための方法」として定着しています。
■医師たちが迫られた「命の選別」の瞬間
では、30年前はどうだったのか。 水谷さんが当時勤務していた県立淡路病院では、医師たちが迫られた「命の選別」の瞬間が記録されていました。
(1995年1月17日 兵庫県立淡路病院にて栗栖茂医師が撮影した映像)
【栗栖茂医師】「おはようございます。こっちは被害ありますか」
【救急隊員】「建物の下敷きになっとる」
【医師】「あとどれくらい来ますの?」
【救急隊員】「いま確認してきます」
【医師】「情報が全然ないよこっち。情報が」
【水谷和郎医師】「一宮からまだ着いてないみたいなんですよ」
【医師】「状況知らせてもらわなあかんわ」
水谷医師は当時、情報が入ってこなかった様子を語りました。
【水谷和郎医師】「とにかく情報が本当に入らない。電話通じない。携帯はもちろんない時代」
混乱の中で、動いた医師がいました。
(1995年1月17日の映像)
【松田昌三外科部長(当時)】「呼吸が止まって20分たってますから、蘇生は困難です。諦めてもらわんと。次の人に行かなあかん。やめ」
【松田昌三外科部長】「とにかく助けられる人を助けないと。助からない人は諦めな。この人も何分ぐらいか分かる?」
【救急隊員】「現場到着してから15分程度CPR(心肺蘇生法)実施して…」
【松田昌三外科部長】「よし、やめなさい。ストップ。次の人にかかろう」
当時の松田医師の判断に、水谷医師は思いをめぐらせます。
【水谷和郎医師】「心臓マッサージをやめるという判断。(現代だと)先ほどの黒タッグに通じる。『やめなさい』っていうのが自分の立場で言えたのか。なかなか言えなかった」
■呼吸停止の男子中学生。その妹…厳しい状況に次々と判断していく
そこへ、男子中学生が呼吸停止の状態で運ばれてきます。
(1995年1月17日の映像)
【医師】「はさみある?誰かはさみ持ってへん?」
【松田昌三外科部長(当時)】「この子は何分やる?次の子来るまで頑張ろか」
しばらくすると、男子中学生の妹が運び込まれるという情報が入ってきました。
【医師】「妹や」
【松田昌三外科部長】「この子若いからいっぺん頑張って。体硬いな?あかん無理やな」
【水谷和郎医師】「あー覚えてますね。妹さんも時間たって厳しかったですね」
■どこで治療を止めていいか分からず「やめられなかった」と水谷医師
【山之内すずさん】「何て言っていいのかも分からないですよね。やっぱり…現場で混乱が続いている中で松田先生のような、『もうやめよう』っていう人がいながらも、先生方はどうにか助けたいっていう思いもすごく感じ取れるし、いやあ難しいですね」
【水谷和郎医師】「まさにそれが災害医療なんですね。全部助けてあげることができないということになる可能性があるのが災害医療。そのときにどう判断していくのかっていう1つの指標があのトリアージのやり方なんですね」
【山之内すずさん】「(当時の)心境はどうでしたか?」
【水谷和郎医師】「どうしていいんやろうが一番先ですかね。次から次へくる状況。また次も来るかも知れへん。どこで止めるっていうのが本当に分からなかった。ずっと続けてる。みんな疲れてきて」
【水谷和郎医師】「松田先生が判断を下してくれたんですね。『あ、よかった』って、正直言葉悪いかもしれないけど、『これやめていいんや』っていう。(医師)3年目の自分としてはやっぱりやめられなかった」
■「考えて動ける医療者になってほしい」と水谷医師
水谷さんは、将来医療の世界で働こうとする学生たちに、自身の経験を伝える活動を続けています。
【水谷和郎医師】「(伝えるのは)つらくないといえばうそになる。あのビデオが出てくると、当日に引き戻されるんで。あのときこんなことしてたな、あるいはこうしとけばよかったなっていうのは出てくる」
【山之内すずさん】「どういう思いを(後輩たちに)伝えたい?」
【水谷和郎医師】「誰も答えを教えてくれないんですよ。その時に。じゃあどうしたらいいっていうときに、考える知識がなかったら動けないんですよ。その時に考えて動ける医療者にみんななってほしいというのが1つの願いですね」
【山之内すずさん】「その思いをきっと若い私たちのような震災を経験していない世代にも思いは伝わりますし、先生が実際に経験した気持ちが100パーセントは分からなくても、数パーセントでも感じ取って記憶し続けるっていうのは大事ですよね」
■「記憶として薄まっていく部分は必ずある。いかに濃く残すか」
山之内すずさんは、再び東遊園地の「希望の灯り」の前にやってきました。 ここで1月17日に行われる追悼のつどいでは、メッセージを書き込んだ竹灯籠に祈りがささげられます。すずさんも、1日の取材を通して感じたメッセージを書き入れました。
【山之内すずさん】「はい、書きました。『憶(おぼえる)』。たくさんの方の命を奪った阪神・淡路大震災が、神戸であったという事実を憶えておくこと。過去のことを次につなげられるように、きちんと心にとめておくことが、何より大切だと思ったので、『憶』という字を書かせていただきました」
【山之内すずさん】「大人になったいまに、阪神淡路大震災から30年という節目を迎えられていて、ここからまた30年たって60年、70年となったときにどうしても経験した人も減っていくし、記憶として薄まっていく部分は必ずある。いかに濃く残すか、忘れずに思い続けるっていうのは、今までも思ってましたけど、今まで以上に意識していこうと思いました」
生まれる前のあの日から、次の未来へ。思いは、紡がれます。
(関西テレビ「newsランナー」 2025年1月13日放送)