「お母さんがいたらな」4歳で母亡くした女性は成長して支える側に「今度は自分の番」東日本で出会った母を亡くした子供も就職する年齢に【震災30年つなぐ未来へ】 2025年01月16日
4歳の時に阪神・淡路大震災で母を亡くし、多くの人に支えてもらった女性。
成長した女性は「今度は自分の番」と、同じような境遇の子どもたちを支えるようになりました。
■震災から30年 今だからこそ、伝えたい。亡き母への思い
1月11日、震災で親を亡くした人たちが集まり、追悼と交流のつどいが開かれました。
その会場で福井友利さん(34)は、亡き母への思いを語りました。
【福井友利さん】「阪神・淡路大震災から30年がたとうとしています。どれだけの年月がたっても、亡くなったお母さんに会いたいと思うし、お母さんがいたらなって思ってしまうことがあります」
■「家族より先に起きて朝ごはんの準備をしていた」母を亡くす
【福井友利さん】「1階がぐちゃぐちゃになって、2階がそのままストンって、落ちて1階の上に乗っかってる感じ」
当時、福井友利さん(34)はまだ4歳でした。
幼い2人の娘を残しこの世を去った母・幸美さん(当時31歳)。
あの日、家族より先に起きて、朝ごはんの準備をするため台所に立っていて、犠牲になりました。
【福井友利さん(2011年・当時21歳)】「お母さんのことはほとんど覚えてない。自転車の後ろに乗って、一緒に買い物に行ったとか。前髪をちょっと切ってもらったりとか。それくらい。
お母さんのことをあんまり覚えていない自分が悔しい」
■学校の友達に言えないことが言える特別な場所「親を亡くした子どもたちのつどい」
そんな友利さんにとって特別な場所があります。
震災で親をなくした子どもたちのために、あしなが育英会が設立した「神戸レインボーハウス」。
震災が起きた年の12月、父に連れられて参加したのが、親を亡くした子どもたちのつどいでした。
自分と同じ境遇のお兄さんやお姉さんの前では、抱え込んできた寂しさを打ち明けることができました。
【福井友利さん】「学校の友達には言えないこともあるけど、レインボーハウスで会った友達には言える。寂しいとか。同じような境遇やから」
自分と同じように、親を亡くした子どもたちとの出会いが彼女を支えてきました。
■東日本大震災では被災地を訪れ 親を亡くした子供に寄り添う
2011年3月に東日本大震災が起きると、大学生だった友利さんは、毎月のように東北の被災地を訪れました。
親を亡くした子どもたちに会うためです。
【福井友利さん】「ゆっぴです。4歳のとき、阪神・淡路大震災でお母さんを亡くしました」
【梶原真奈美さん(2011年・当時8歳)】「ママを津波で亡くしました」
梶原真奈美ちゃんは、消え入りそうな声でそう言いました。
大好きだったママ・希久美さん(当時37歳)は、津波の犠牲になりました。
真奈美ちゃんは当時、祖母の精子さんと、いとこの家族と一緒に暮らしていました。
【真奈美ちゃんの祖母・精子さん】「『ゆっぴお姉ちゃんもね、津波はないんだけど、地震でお母さん死んじゃったんだって。だから真奈だけじゃないんだ、お母さんいないの』って、なんかそこで親しみを抱いたじゃないかな。真奈美は」
■「今度は自分の番」神戸で受け継がれてきた思い
「つどい」には子どもたちが思いを語る、『おはなしのじかん』がありました。
真奈美ちゃんに順番が回ってきましたが、話すことができません。
【福井友利さん】「パスでもいいよ」
何も話せなかった彼女の気持ちを、周りの大人がそっと受け止め、長い時間をかけて心に寄り添い続けます。
【福井友利さん】「今まですごく支えられてきたから、今度は自分の番かな」
福井さんたちと遊ぶうちに、真奈美ちゃんは笑顔に。
子どもたちの姿を、幼い日の自分に重ねます。
ひとりぼっちにしないこと、普段吐き出すことができない思いにそっと寄り添うこと、何かを与えるのではなく一緒に前に進もうとすること、それは神戸で受け継がれてきた思いです。
それぞれの道を歩みながら、かつて自分がしてもらったように、友利さんは真奈美ちゃんに寄り添い続けました。
■時間をかけて心の整理 あの時話せなかった母への想い
友利さんは今、茨木市の中学校給食センターで、管理栄養士として働いています。
高校生の頃、家族の食事を作っていたことがきっかけで、栄養士を志しました。
そして、大学生になった真奈美さんは、この春から食品関係の会社に就職することが決まっています。
【梶原真奈美さん(22)】「就活の時とかも、家族には相談してなかったんですけど、ゆっぴには言ってました。 まさか同じ職業の道に進んでるとは思わなかったので、こんなことあるんだなって。境遇も似ているし、選んだ職業も似てて、うれしい気持ちがあります」
(Q.今、大人になってお母さんのことは?)
【梶原真奈美さん(22)】「自分の人生の半分以上は、お母さんがいない状態で生きてきて。やっぱり大きくなったところとか、成人式とか見てほしかったし、お酒とか一緒に飲みたかったなって。いまはすごく思うときあります」
あの頃話せなかった自分の気持ち―。
時間をかけて向き合った今、心の整理ができるようになりました。
■震災遺児代表としてあいさつ「お母さんが残してくれた出会いを大切にして生きていきたい」
友利さんはことし、神戸レインボーハウスで開かれた、震災30年の追悼のつどいで震災遺児代表として、あいさつに立ちました。
今だからこそ、伝えたい。亡き母への思いです。
【福井友利さん】「この30年間いろいろなことがあり、たくさんの方々に出会いました。やはり一番大きな出来事は東日本大震災だったと思います。
出会ったとき小学生だった子どもが中学生、高校生となり、気づけば社会人として働いていると聞いたとき、子どもたちの成長を、ひと時でもそばで見守ることができ、うれしかったです。
お母さんは最後にたくさんの人との出会いを残してくれました。お母さんが生きていれば、出会うことはありませんでした。
お母さんが亡くなってしまったことは、寂しく悲しいことで、会いたいという気持ちは今でも変わりません。でも、お母さんが最後に残してくれた、この人たちとの出会いを、これからも大切にして生きていきたいと思います」
(関西テレビ「newsランナー」2025年1月15日放送)