JR福知山線の脱線事故は、その後の災害医療にも大きな影響を与えました。
あの時、何ができて、何ができなかったのか…。そして、その教訓を14年経った今、どう生かしているのか。医療従事者たちの証言です。
2005年4月25日、兵庫医科大学病院
【医師】
「次、29歳、女性!29歳女性、重傷」
「ストレッチャー早く!」
病院が撮影した映像には、医療従事者が総出で治療にあたる様子が映し出されています。
兵庫医科大学病院は、最も多い113人を受け入れました。
「想定外」から「教訓」を 災害医療の転換点
【兵庫医科大学病院・平田淳一医師】
「道端と言いますか…、こういう歩道のような場所に寝かされているような状況でした」
当時、治療にあたった平田淳一医師(46)です。
【平田医師】
「ひっきりなしですね。大きなマイクロバスで搬送されてくることもあったし、トラックの荷台に積まれて搬送されてくることもあった。見るも無残な状態な方も一杯いました。一種、戦場のような感じでした」
初めて経験する大規模な事故でした。当時の救命センターは、一度に100人を超える患者を受け入れることは想定していませんでした。
事故を受けて、兵庫医大は救命センターを一新。
【平田医師】
「傷病者受け入れに関しては前の救命センターは、(患者)2人から3人が精いっぱいだった。今はかなり充実した設備で幅も広くて」
多くの患者を同時に治療ができるよう、処置室は広く作り替えられました。
入り口の「待合室のソファ」にも工夫がされています。
【平田医師】
「簡易式のストレッチャー、ベッドですね。ここに乗る感じですね。車輪がついているので搬送に使えると。当時の教訓が生かされていると思う」
【平田医師】
「いわゆる阪神大震災ようなこともあるが、もうそうそうないだろうといったところが、どこか気持ちの中に医療者もあったと思う。あの福知山線の脱線事故で、いよいよこれはほんとだな、いつ起きてもおかしくないと」
【平田医師】
「元気に出て行った家族が亡くなって帰ってくることが、いつ自分の身に起こってもおかしくないということを目の前に突きつけられた事故だった」
現場で何をすべきだったのか…自らに問いかける
東京・立川市。
千島佳也子さん(39)は東京に来て、5年が経ちました。
脱線事故が起きた時は、兵庫医大の看護師として現場に向かいました。
千島さんは、救命救急の看護師として経験は積んでいたものの、病院の外で処置をするのは初めてでした。
千島佳也子さん】
「私が先頭車両だと思っていたのは、実は先頭ではなくて、先頭は下に潜り込んでいた。ぐちゃぐちゃになった駐車場を見た時に、これはと思いました。目視したら50人くらい(負傷者が)いるが、とりあえず目の前の人たちの対応をしていた」
千島さんと一緒に治療をした切田学医師(66)は…。
【加古川中央市民病院・切田学医師】
「駐車場の地下に傷病者がいるので先生来てくださいと言われて、その中に入っていったが、油だらけで、滑るわ、入っていける状況ではなかった」
【切田医師】
「医療従事者もトラウマになった人がいた。看護師さんでしたけど電車の音を聞くとパニックになる。急に泣き出したりね」
医療従事者でさえも、後ずさりしてしまうような現場。
【千島佳也子さん】
「看取られずに青空の下、ご遺体がある風景は私初めてだったので。トリアージをしたり、止血をはかるぐらいしかできなかった」
人生を変えた事故でした。
【千島さん】
「あの現場で自分が何をするべきだったのかとか、本当は何をしないといけなかったのか、できたことはなんなのか、できなかったことはなんのなのか。整理に2年ぐらいかかった。なかなか見えてこなくって」
事故を経験した自分が、進むべき道は何なのか。
看護師を辞めて、生涯“災害医療”と向き合おうと決めました。
あの記憶を「教訓」にし、次の世代に
大規模な災害や事故の現場で活動するために、専門的な訓練を受けた医師や看護師らで編成される、災害派遣医療チーム・DMAT。
被害の状況を把握し、DMATをどこにどれほど派遣するのか。千島さんは、今、災害医療を後方から支える仕事をしています。
【厚生労働省DMAT事務局・千島佳也子さん】
「どっぷりやりたかった。生活を支えるところから災害が起きた時の対応から、行政を含んで全体を網羅できるところはどこだろうと思ったときに、DMAT事務局かなと思って入局した」
千島さんは、1年の半分は全国各地でDMAT隊員を育てる研修しています。
この日は災害時の“トリアージ”。患者の症状を判断して、必要な情報を書き記す際の注意点について講習しました。
【千島さん】
「ここに所見を書いてますよね。何時の時点なのかが重要。患者本人の会話で書けることがあれば、書いてあげてください」
【千島さん】
「訓練をしなければ実災害の対応はできない。関西ではより重要なのかと思う脱線(事故)であろうが地震であろうが、いろんな災害をひっくるめて活動できるように指導をしていくことは必要かなと思っています」
【千島さん】
「あの経験をした者として、そのあともどう災害に関わっていくか、自分にはその責任があると思っていて、そこをやらないといけない」