大阪市西成区の日雇い労働者を「50年間」記録してきたカメラマン。
秘蔵写真に描かれた街の変貌と人間ドラマとは?
道の両端に堂々と作られた居住空間。
他にも「一見怪しげな露天商」の写真や、「茂みでスヤスヤと眠る男性」が映ったものも…。
これらは全て、大阪市西成区のあいりん地区・通称「釜ヶ崎」で撮影された写真です。
撮影したのは、中島敏さん、72歳。
50年間、釜ヶ崎を撮り続けてきたカメラマンです。
【中島敏さん】
「引き寄せられたのかも分かりませんよね。特別な場所になりますよね、ここが。釜ヶ崎がね」
中島さんは高校を卒業すると、スポーツ紙のカメラマンを目指し、香川県小豆島から、大阪の写真専門学校に進学しました。
この年、釜ヶ崎で起きた火事を発端に、労働者ら、約200人が暴徒化する騒動が勃発。報道を見た中島さんも、「何が起きているのか」と現場に駆け付けました。
それが、中島さんと釜ヶ崎の最初の出会いです。
【中島敏さん】
「(暴動の現場を)見物して回って、全然怖いとか、そういう印象を受けなかった。気さくな人たち、それから自由に生きているなと。ものすごくいいイメージが残っていたんです。そこ(暴動現場)を見に来なかったら、今、ここにはいないんですよ」
専門学校を卒業後、カメラマンの助手として就職するも半年で挫折。当時、大阪万博の開催準備で景気の良かった日雇いの仕事を求めて、中島さんは釜ヶ崎を訪れました。そこで、再びカメラを手にすることとなるのです。
それは、日雇い労働者たちが寝泊まりしていた、当時「1泊300円程度」の簡易宿泊所での出来事でした。
【中島敏さん】
「下の階のおっちゃんが酒が好きで、酔いつぶれているところが、ドアが半分ぐらい開いていてちらっと見えた。あ、これは写真になるなと思いましてね。それを撮ったのが一番最初」
「1人の労働者として、この街にいるんじゃなしに、カメラマン、表現者として見るとなんかいっぱい撮れるところがあるんですよね」
中島さんは、日雇いの仕事をしながら写真を撮り続け、1990年に、釜ヶ崎で生活する労働者を撮影した写真集「単身生活者」を出版。そこには、労働者が見つめる、労働者のリアルな生きざまが映し出されています。
変わりゆく労働者の街を…「記録」
【中島敏さん】
「あー、こういうのちょっと、撮りたいな」
5月2日、カメラを手にした中島さんの姿が、釜ヶ崎にありました。レンズの先にあるのは、この街のシンボル「あいりん総合センター」です。
【中島敏さん】
「シャッター閉まってるのが、異常ですよね。今まで開いてるのが当たり前でしたから、こんなの初めてですよね」
「あいりん総合センター」は、路上での求人活動を解消しようと、1970年に建設されました。1階には、早朝から建設会社などが日雇いの求人活動を行う「寄せ場」と呼ばれるスペースがあります。センターの中には、職業安定所のほか、病院や市営住宅もあり、仕事を求めて全国から労働者が集まりました。
しかし…
【記者リポート】
「あいりん総合センターです。反対する人たちがいて、シャッターが閉められない状況が続いていましたが、4月24日、本日このようにようやくシャッターがすべて閉まりました」
耐震化の問題から再来年に解体して、2025年に建て替えることが決定。
一部の労働者らが閉鎖に反対していましたが、先月、国と大阪府は、警察官を加えた約500人態勢で、労働施設部分の完全閉鎖を強行しました。
【中島敏さん】
「いよいよ歴史的使命を終えて、解体されるのを待ってるわけですよね寂しいですね、やっぱり。感慨深いですよね、私なんかはね」
釜ヶ崎から消えゆくものは、このセンターだけではありません。
バブル崩壊後、建設業界は冷え込み、ピーク時には2万4000人ほどいた日雇い労働者は、今では700人ほどに激減。かつての簡易宿泊所は、生活保護を受給している人向けのアパートや、観光客が利用するホテルへと姿を変えていきました。
【中島敏さん】
「もう一遍してますよね、ここだってほとんど2階建てのドヤというか、全部そうだったんですよ。景気の波をもろにうけますからね、ここはね」
かつて日雇い労働者で活気に満ちていたこの街は、今や、高層ビルが立ち並ぶ、外国人に人気の観光地です。
『刻一刻と変わりゆく釜ヶ崎を、記録しなくてはいけない』
そんな衝動から、中島さんは、1994年以降、カメラマン人生の全てを捧げた挑戦に挑みます。
それは、古い釜ヶ崎の写真を集め、同じ場所から撮影した「定点観測」写真。
その数は、1万枚にものぼります。
【中島敏さん】
「ここが、旧寄せ場(日雇い求人活動の場)なんですよ」
Q:センターが建つ前の?
「ええ、青空労働市場ですか、そんな感じ」
1994年、同じ場所で、中島さんが撮影したのがこの写真です。「青空労働市場」はなくなり、南海電鉄の新今宮駅が映っています。
もう一ヵ所、中島さんの案内で訪れたのは、釜ヶ崎で最後まで「バラック」が残っていたという一帯。
【中島敏さん】
「べったり高架に張り付くように、バラック小屋がひしめいていた。古い建物のほうが生活の臭いがしみ込んでますよね。それのほうが味がありますよね」
Q:今、この景観あまり撮りたいものはない?
「あまりないですね、心惹かれないですね」
しばらくこの場所を眺めていた中島さんですが、シャッターを切ることはありませんでした。
労働者が通った大衆食堂は、カラオケ居酒屋に。
小学校は廃校となり、跡地には、現在「あいりん総合センター」にある病院や市営住宅の建設が進みます。
【中島敏さん】
「あー、やっぱりこの場所ですね。これが、1965年ですから、もう一変していますよね。何人ものカメラマンが釜ヶ崎を撮ってますけど、定点撮影で釜ヶ崎を表現したのは私だけですよね」
■“釜ヶ崎”の歴史を…デジタルアーカイブ化
そんな、中島さんが撮り続けてきた写真に、大きな価値を見出した人たちがいます。
【神戸大学 人文学研究科 原口剛准教授】
「あった。関空工事現場。写真で見たのは初めて」
【中島敏さん】
「あんまり労働者を撮る人はいないですからね」
神戸大学の原口准教授と大阪市立大学の櫻田特任講師は、中島さんが撮りためたネガフィルムを、インターネット上で保存する「デジタルアーカイブ化」の作業を進めています。
白く飛んでしまった写真も、パソコンでレベル調整すると、人の表情やプラカードの文字まではっきりと分かります。
【中島敏さん】
「雨の日のなんとかって書いてるな…『あぶれ代』だ、雨の日の賃金保障でしょ」
【神戸大学 人文学研究科 原口剛准教授】
「釜ヶ崎の写真というのは、釜ヶ崎だけの記録じゃなしに、当時の、或いは現在まで続く社会を映し出す広さを持っていると思う。戦後社会のあり方だとか戦後経済のあり方を知る手がかりなんです」
原口准教授らは、約1400枚の写真を厳選してアーカイブ化し、4月から、順次インターネットで公開しています。
【中島敏さん】
「これ(定点観測撮影)が、ライフワークになりましたからね。とにかく釜ケ崎の全貌に非益を顧みず挑戦していった結果ですね。やっぱり全貌は見えない。断片には間違いない」
中島さんが50年を捧げても、全てを知ることが出来なかった、西成・釜ヶ崎。
釜ヶ崎はこれからも変化し続けますが、中島さんの写真は、このまちが「労働者のまち」だったことを語り続けることでしょう。