東日本大震災からまもなく10年です。
原発事故があった福島県では、 今なお、3万人近い人たちが県外で避難する生活を続けています。
その中のひとり、京都府綾部市に避難している女性が、自らの体験を朗読劇にしました。
故郷を思い続けた10年間の物語です。
■家族4人で京都へ避難 4歳の長女についた嘘…「大丈夫だよ」
――朗読劇――
「お母ちゃん、どこに行くの?」って言ったんだ。
どこさ行っていいのか本気でわかんない。
長女に聞かれて我に返っちまった。
ぶわって泣き出したい感情、喉の奥さごくんって飲んでくっちぇ、
「大丈夫だよ。もうすぐだから、まんた寝てていいかんね」て、全力で嘘こいた。
“福島弁”で朗読劇をしているのは、井上美和子さん。
2011年3月、家族4人で福島県南相馬市から逃げました。
娘たちは当時、2歳と4歳でした。
東日本大震災の翌日、福島第一原発で水素爆発が起きます。
変わり果てた原子炉建屋を目にした時、子供達を守るために逃げること以外、浮かびませんでした。
娘たちを同じ保育園で受け入れてくれた京都府綾部市に避難し、市民の好意で住宅の提供を受けました。
夫の貴(たかし)さんはギターの修理業を営んでいます。
■“帰還促進・雇用斡旋”漂う安全ムード…「動悸がする。また見て見ぬふりするのか」
福島第一原発に程近い浪江町で生まれた美和子さん。
国や東京電力の責任を問う裁判に参加しました。
東京電力で働く友人も多く、自身も若い頃、関連企業に勤めていました。
なぜ原発の安全性を疑わなかったのか…。
ずっと考えていました。
【美和子さん】
「ここにあることを“見て見ぬふり”してきたからだ。聞いて聞かぬふり。知って知らぬふり。誰々さんの紹介だもん黙っとけ。誰々がやってることだから黙っとけって。私たちはそうやってきちゃったべ」
「それで子供はもちろん、先祖から預かってきた墓でさえ汚染させちゃったよ」
避難してからは、原発の問題について先陣を切って話してきました。
【美和子さん】
「外に出たときは精一杯、元気はつらつな“ふり”をしていたので。無理してね」
「家ではそんなに笑ってないじゃん。信じられないんだよね、なんか…本当に私の実家はなくなってしまったんだな」
美和子さんの実家は、父親が出稼ぎ労働で、やっとローンを払い終えた家でした。
父親は復興住宅に移り、実家の跡地には今、『梅の木』だけが残されています。
井上さん一家が暮らしていた家は南相馬市にあります。
山の中腹に夫婦2人で建てた手作りの家。
しかし今も、ここに戻ることができないままです。
国は避難区域に指定していませんが、南相馬市の家に帰れない理由について、裁判の中で陳述しました。
【美和子さん(2019年2月『原発賠償関西訴訟 報告集会』)】
「2013年春、友人からまたも暗い声で電話が入る。『すぐ裏の元牧場に除染土を運び込むらしい』と言われた。仮置き場候補地と我が家は脇を流れる川でつながっており、残念なことに私たちは下流側だった。車通りのなかった道を街中の汚染土を積んだ運搬車両が往来するようになり、自宅一帯がさらに放射線の影響に注意すべき場所となった。失意と落胆の連鎖。南相馬に帰れない材料ばかりが積み上がっていく」
「2019年2月現在、帰還促進、雇用斡旋、観光誘致、福島に行くための施策支援が拡充され安全ムードが漂い出している。それらを目にするたびに動悸がする。また見て見ぬふりでいくの?また繰り返すのか?情けない、情けない、情けない」
【避難している女性】
「福島の訛りを隠したりしてきた部分もどっかであった気がして、井上さんの陳述聞いて、私も福島弁を思い出してしゃべろうって…」
この経験が美和子さんの次の一歩に繋がります。
書き溜めてきた日記をまとめ、福島の言葉で語る『朗読劇』を始めました。
――朗読劇――
この家はお父さんの働き詰めの人生。お父さんそのものだったべよ、と思ったら、私の中のしまい慣れた怒りがだらだらと漏れてくる。
「庭木全部切ってもらうからな」
「うん、わかった」と答えた私だったんだけど、いよいよ今日が伐採という日の朝。
「お父さん、やっぱあ悪いけど、あの紅梅だけは切んねえでくんねえかな。あの玄関前の梅の前でよ、家族の節目節目で記念写真撮ってたからよ、あの木だけでも残してもらいてえんだ」
「わかった」と言って、車から作業員の元に走り出した父。
「すいません、すいません、すいませーん。この梅だけやっぱ切んねえでください」
■「ごめんね、ありがとうって抱きしめたい」…震災から10年の“葛藤”
この年末も父親が暮らす福島に帰りました。
コロナで帰省の自粛が求められましたが、会いたい気持ちの方が勝りました。
【美和子さん】
「(父が)『原発事故で俺の本当の家で死ねなかったから、あと何年も生きられないんだから、おめえらと違って』って」
「父と過ごせる時間は、原発事故後は1年に2回になっちゃったんだから。その2回すら奪われたくはないの」
何物にも代えがたい、家族の時間です。
2歳と4歳だった子供たちはもう、中学生になります。
【美和子さん】
「避難生活なのに抱きしめたい10年だな、戻ってきた人、留まってくれた人たちはもちろん、その人たちが“私たちが帰る福島”になるまで支え続けて、耐え続けてくれたことへの感謝の気持ち」
「福島にいる皆さんたちに、私は県外に子どもたちが小さいからと逃げたけど、ほんとに一人一人を抱きしめて回りたい気持ちなんです。できないけど」
「ごめんね、ありがとうねって。そんな10年」
次の10年は分断ではなく、同じ故郷を思い、繋がりたい。
――朗読劇――
今父は言う。
「美和子、あの梅、残していがっだわ」
今は更地となってしまった実家さ、家があった時と変わんねで、美しい紅梅がさいたと。
「年取ったら娘の言うこと聞くもんだなあ」って父が続けたんだけど。
あたしはうんうんって、うなづくばかりで、返事の代わりに涙が出たんだ。
いつか見事に咲きそろった頃に留守番の紅梅さ、会いさ行きてえ。
(カンテレ「報道ランナー」3/4放送))