【戦後76年】終戦後に始まった苦難 旧満州に送り込まれた10代の若者たち 「見捨てられたという一言に尽きる」…逃避行 栄養失調で倒れる仲間 2021年08月11日
終戦から76年。
その日から日本が復興に向け動き出す一方で、さらなる苦境にさらされた人たちがいます。
中国の旧満州には、国策で多くの人が送り込まれ、終戦後に約20万人が、ソ連や現地の暴徒による虐殺や病気、集団自決などで命を落としました。
90歳を過ぎた今も、生存者はその記憶を伝え続けています。
京都市に住む92歳の村尾孝さん。
今でも、仲間たちの写真を大切にしています。
【村尾孝さん(92)】
「報国農場の生還学生全員ですね。だから、生き残るものと死ぬものどれだけの差があるんでしょうね」
異国の地で、命からがら生き残った仲間たち。
その場所とは、中国東北部の「満州」でした。
1931年、世界的な不況の中、日本の関東軍は、中国大陸への影響力拡大を狙い中国東北部を占領。
かいらい国家「満州国」を建国し、中国との戦争に突き進みました。
満州には、農村の立て直しや、ソ連との国境防衛の強化という国策のもと、全国各地から多くの若者が「開拓団」として送られました。
村尾さんが満州に送り込まれたのは、1945年4月。
16歳で東京農業大学に繰り上げ入学した直後のことでした。
当時、東京農業大学は、ソ連との国境付近に、「報国農場」と呼ばれる農場を開設していました。
「報国農場」とは、戦争末期、食料の増産などを目的に満州の開拓団の農場の近くにつくられたもので、全国の府県や農業団体などに、政府公認の農場を割り当てる、というものでした。
村尾さんは、1日も授業を受けることのないまま、大学から満州への派遣を告げられたのです。
たどりついた満州の農場で目にしたものは、開墾もされていない湿原でした。
【村尾孝さん(92)】
「行く時は農大の方から『白樺茶寮』というのがあって、満州は食料が豊富だから、カレーライスでも、おぜんざいでも食べれるんだという嘘を聞かされて行きました」
「農場は、約7500ヘクタール。といっても平原ばっかりです。耕したところはほとんどないんでね。原野ばっかりでした」
■ソ連侵攻で始まった逃避行…ソ連軍や現地の暴徒に攻撃されながら逃げ続ける日々
荒れ果てた大地を耕す日々が4カ月ほど続いた1945年8月9日、事態が動きます。
ソ連軍が国境を超え、侵攻してきたのです。
村尾さんたちは、当初、最寄りの駅から鉄道に乗って避難する計画でした。
ところが、その駅や線路は、ソ連軍に取られることを恐れた関東軍によってすでに爆破された後。
自分たちを守ってくれるはずの関東軍は、すでに撤退した後でした。
村尾さんたち学生は、ソ連軍や現地の暴徒に攻撃されながら、山の中をひたすら歩いて逃げ続けるしかありませんでした。
【村尾孝さん(92)】
「開拓団の人たちは、『学生さんお先に』って言って馬車に乗ってそのまま行って、ソ連軍から機銃掃射を受けて、あくる日、血みどろになって歩いている。子供の手を引っ張って。中には暴徒に襲われましたと言っていた人もいました。開拓団は荷物持ってるから、襲いに来るんですね」
村尾さんたちは、時には、日本兵の死体から銃や弾を抜き取り、ソ連軍からの攻撃に備えました。
【村尾孝さん(92)】
「死体ばっかり見て歩きました。開拓団の人も殺されてるし、兵隊たちも殺されているし」
「(自衛のために)弾が欲しいから、死んでいる兵隊から、『弾薬ごう』に入っている30発、残っていた弾を拾って、ポケットにつめて、そして行きました」
――Q:死体から銃や弾を抜き取る時は、ためらいや恐怖はなかったですか
「ないですね。そういう神経はマヒしてますね」
逃避行が始まって約1カ月後の9月7日、たまたま出会った関東軍の将校から聞かされたのが終戦の事実。
戦争が終わったことも分からず、逃げ続けていたことを知った瞬間でした。
【村尾孝さん(92)】
「正直やれやれと思ったんです。1カ月そんな状態で歩いて。敗戦の天皇の詔勅を聞いて、土下座して涙流している写真あるでしょ。こっちは涙も出んよと」
■難民収容所でのさらなる苦難…栄養失調で次々と命を落とす同級生たち
その後、難民収容所へ移ると、さらなる苦難が待っていました。
アワのおかゆが1日2回のみという食事に、劣悪な生活環境。
帰国をともに夢見た同級生たちが、栄養失調で次々と死んでいきました。
同級生の遺体は、穴を掘って投げ込むことしかできませんでした。
【村尾孝さん(92)】
「(隣で寝ていた同級生が)冷たくなったのに気づくのが、今までいっぱいたかっていたシラミが、冷たい死体から温かい方へ行きますから、隣の寝ている人の方へ、それで分かる。死んでると。死んで硬直して、死に化粧もしてやれない。霜がね降りて、白く霜が降りて、それがせめてもの死に化粧なんですかね」
村尾さんが帰国できたのは、終戦から1年がたった後のこと。
帰国後は農林省(当時)の職員として、農業の発展に尽くしました。
村尾さんを満州に送り込んだ東京農業大学には、今、慰霊碑がひっそりとたたずんでいます。
満州へ渡った96人のうち、半数を超える58人が終戦後に命を落としました。
そのほどんどが10代後半の若者で、病気や栄養失調によるものです。
東京農業大学の小塩海平教授は、2度と同じことが起きてはならないと、村尾さんたちの体験を学生に語り継ぐ活動を行っています。
【東京農業大学 小塩海平教授】
「私が悔しいなと思うのが、戦争が終わった後の被害なんですよね。戦争中に亡くなったっていうなら、それもよくないとは思いますけど、戦争が終わって、何カ月もしてから、バタバタどんどん亡くなっていくわけですからね。政府も大学も無責任だったと思います」
■自ら義勇軍に志願も…終戦後10年帰国できず「見捨てられた」
終戦後10年間、帰国できなかった人もいます。
大阪府富田林市に住む藤後博巳さん(92)
学校の教師に熱心に勧誘され、自ら志願して、満州の開拓や国境警備を担う「満蒙開拓青少年義勇軍」として14歳で満州に渡りました。
満州へ行き、「一旗あげる」思いだったといいます。
終戦を迎えたのは16歳の時。
年齢が低く、かろうじてシベリア抑留は免れましたが、たどり着いた難民収容所では、飢えと伝染病が待っていました。
「このままでは死んでしまう」と、仕事を求めて中国人のもとを訪ね歩きました。
【藤後博巳さん(92)】
「とにかくあてもなく中国人の家を訪れて、なんでもするから食べさせてくれ、寝かせてくれ、給料はいらないと中国人の家に頼むんですね。たまたま、中華料理店の主人が『子どもには戦争の責任がない』という気持ちで快く引き受けてくれたんですね。私にしたら、命の恩人です。もしそこで、中国人の救助の手が差し伸べられてなかったら、私はその冬に死んでたでしょうね」
その後、藤後さんは、中国共産党の軍隊、「八路軍」に強制的に入隊させられ、衛生兵として、中国国内で国民党と共産党が戦った内戦、国共内戦を戦わざるを得なくなりました。
戦場で銃弾が飛び交う中、負傷者を担架に乗せて運ぶこともありました。
帰国できたのは、1955年のこと。
すでに25歳になっていました。
帰国後も、八路軍での従軍経験から、就職活動にも苦労しました。
藤後さんは、自らを「加害者でもあり被害者だ」と語ります。
「義勇軍」の1人として、中国への侵攻に手を貸した責任を感じているとともに、終戦後、国から見捨てられた被害者でもある、という思いからです。
【藤後博巳さん(92)】
「敗戦と同時に多くの人たちが満州に置き去りにされた、当時の棄民政策ですね。そういう、終戦の年に皆さんが日本に帰れたら、こんな大きな犠牲は伴わなかったと私は思います。見捨てられたという一言に尽きますね」
■生き残った者の責任…語り部を続ける生還者「戦争があったこと知ってほしい」
満州の農場から生還した村尾孝さん(92)。
退職後、生き残った者としての責任を果たそうと、京都市にある立命館大学の国際平和ミュージアムでガイドを務めてきました。
これからも、できる限り、続けるつもりです。
【村尾孝さん(92)】
「ミュージアムに来る小学生や中学生たちは、戦争があったことも知らなかったり、アメリカと戦争していたことは知っていても、中国と戦争していたことは知らない。中国と戦争があったことを一番知っておいてほしい。なぜかというと、日本が攻めていった戦争、そして今、中国は大国になってきて、どう付き合っていくかは大事なことになってますからね」
国策で満州へ送り込まれ、終戦後に失われた多くの命。
生き残った者たちの記憶の継承が、今まさに問われています。
(カンテレ「報道ランナー」8月11日放送)