80年前の1942年、日本との戦争が激化していたアメリカで、「ルーツが日本」というだけで、12万人以上の日系人が強制収容されました。
その歴史を語り継ぐ人たちが、今抱く「危機感」を取材しました。
■わずかな荷物で自宅を追われ…日系3世の記憶
京都市に住む野崎京子さん(82)は、アメリカで生まれ育った日系3世です。
カリフォルニア州でイチゴ農家を営んでいた野崎さん一家の生活は80年前(1942年)、戦争によって一変し、わずかな荷物だけを持って自宅を追われました。
【野崎さん】
「これ(カバン)を2つ持って収容所に入ったんです」
――Q:.当時4人家族の物をここに?
「そうです、これ2つに入れて。大変だったと思います」
【野崎さん】
「本当に大変な思いをしてイチゴを作って」
「1日に3時間くらいしか寝なくて、自分の頭にフラッシュライトを括り付けて夜中でも収穫をして、イチゴの香りがする中で、4月ですね、それを放り出して収容されたんですよね。さぞや無念だったろうなと思って」
■アメリカ国籍なのに…日本にルーツあるだけで収容所に
1941年12月、真珠湾攻撃で日米は太平洋戦争に突入し、アメリカに住む日系人たちは、「敵性外国人」とみなされました。
そして2カ月後の1942年2月19日、当時のルーズベルト大統領が署名した「大統領令」によって、西海岸に住む日系人12万人以上が自宅を追われ、10カ所の強制収容所へと送られたのです。
そのほとんどは、アメリカで生まれ、アメリカ国籍を持つ人たち。「日本にルーツがあるだけで危険な人物だ」という、人種差別的な憶測によるものでした。
■粗末なバラックに収容 「親日」とされると留置施設に
【記者リポート】
「この辺りは草が枯れて乾燥した土地が延々と広がっています。この時期は気温が氷点下まで下がります。金網の向こうに、かつて日系の人たちが暮らした収容所があったということです」
カリフォルニア州北部にあった、ツールレイク強制収容所。ここには、多い時にはおよそ1万9000人の日系人が収容されました。
学校などの施設は整備されていましたが、収容所の敷地は鉄条網で囲まれ、監視塔からは武装した兵士が常に目を光らせていました。
【記者リポート】
「これが実際に人々が実際に暮らしていたバラックです。壁も天井もすべて木材を組み合わせただけの非常に簡素な作りとなっています」
厳しい気象条件の中、人々は粗末なバラックでの生活を強いられました。収容所の中でも特に監視体制が厳しいツールレイクでは敷地の外に出ることは許されず、「親日」ととられる行動をとった人を収容する留置施設までありました。
【ツールレイク強制収容所跡を管理している国立公園局の担当者】
「ここは刑務所であり柵の中にあったので入れられたのは、犯罪者や悪人だけだと思われがちですが、そうではありません。家族がいる普通の人、自分や家族に対する仕打ちにただ怒っている人たちだったのです」
■「天皇への忠誠を捨てるか」NOと答えた父
実はこの収容所に送られた人たちには多くの場合、共通点がありました。アメリカへの忠誠を問う質問に「NO」を突き付けていたのです。
各地の収容所にいる日系人たちにアメリカ政府が送った「質問書」。その人を収容所の外に出すことが出来るのかなど、様々な狙いがあったとされ、「天皇への忠誠を捨てるか?」「アメリカ軍に入隊する意思があるか?」といった質問が並びます。
アメリカへの忠誠を問うこれらの質問に、「NO」と答えた多くの人は、各地の収容所からツールレイク収容所へと移されました。
野崎さんの父、力(つとむ)さんもその1人でした。「Yes」と書けば日本にいる親族がどうなるか分からない、そう考えた末の苦渋の選択でした。
その上で「アメリカと敵対するつもりはない」と書き加えたものの、一家はツールレイクへ移されます。
その後、力さんだけが「抑留所」と呼ばれる施設へ送られ、家族は離ればなれで暮らすことを余儀なくされたのです。
【野崎さん】
「一番彼(父)が言いたかったことは、これを、キャンプ(収容所)に入れる前にこういうことを聞くべきだ、と。入れてしまって自由も奪い、アメリカ人としての権利をすべて否定した後に、アメリカ人として戦えなんて、よく言えたなと」
■アメリカ政府は公式に謝罪も…なくならないヘイトクライム
戦後、アメリカ政府が公式に謝罪したのは40年以上経った1988年。当時のレーガン大統領が「人種差別による重大な過ちだった」と認め、1人当たり2万ドルの補償金が支払われることになりました。
しかし、新型コロナ以降、トランプ前大統領の対立をあおる発言などによって、アジア系の住民に対するヘイトクライムが急増するなど、「過ちの歴史」は様々な形で繰り返されています。
ロサンゼルス中心部にある「全米日系人博物館」は、日系人の移民や強制収容の歴史を伝えています。この日は地元の中学生たちが見学に訪れていました。
スタッフが「強制収容について、アメリカ政府は謝罪をしたと思うか」と中学生たちに質問すると、「していない!」との答えが。
スタッフは、「実際は謝罪しています」と応じました。
【見学していた中学生】
「強制収容はとても悪いことだと思います。二度と起こってほしくないと思いました」
「自分の家族もアメリカに移民として来たので共感出来ました。他の文化や他の人種の人たちのことを知ることが出来て、とても興味を持ちました」
■まだ十分に知られていない強制収容の歴史
日系3世のマサコ・ムラカミさん(87)も9歳からの2年間、ツールレイクの収容所で暮らしていました。
父親は、アメリカへの忠誠を迫る質問書に「No」と答えましたが、戦争が終わった後もそのことについて、話そうとしなかったということです。
【ムラカミさん】
「ツールレイクにいた人たちは、他の人たちに見下されると思って、(NOと答えたことを)話したがらなかったんです」
「私の両親も、父が亡くなる直前まで話しをしませんでした。(亡くなる直前に聞いた話では)父はアメリカ政府に対してとても怒っていました。私たちはみんなアメリカ市民なのに、強制収容所に入れられたからです。だからこそ父は質問書にNOと答えた、と言っていました」
ムラカミさんは、博物館が30年前にオープンした当初からボランティアスタッフとして運営を支えてきました。強制収容の歴史はアメリカ国内でもまだ十分に知られていないと感じています。
【ムラカミさん】
「人々は、二度と同じ事を繰り返さないために、過去に何が起きていたのかということを知る必要があります。だからこそ、この博物館がここにあることが、とても大切なことだと思っています」
■過ちの歴史を伝え続ける「語り継ごう」
京都市に住む日系3世の野崎さんは、のちに研究者となり、大学での講義や執筆活動を通じて伝えています。
真珠湾攻撃が引き金となり、日本にルーツがあるだけで「敵」とみなされました。
野崎さんは強い危機感から今も、当事者として、そして研究者として過ちの歴史を伝え続けます。
【野崎さん】
「知らないからやってしまうということがある。差別する人というのはほとんど自分が差別しているつもりがないんですよね。当たり前だと思っている」
「(強制収容が)ずっと前に起きたことというだけじゃなくて、今でも起きていることと結びついている。過去のことだけじゃないなと、今でもあることだなと、誰もが経験するかもしれないことだなと」
「忘れないで覚えておこう、語り継ごう、それって大事なことだなと思います。私もそれを微力ながらやっていると自分では思っています」
(関西テレビ「報道ランナー」2022年2月21日放送)