50年前の5月13日、大阪・千日前で起きたデパートビル火災。
118人が亡くなった大惨事は、私たちの安全に関わる対策を抜本的に変える出来事となりました。
当時の記憶と、教訓を語る人々を取材しました。
■週末の夜を楽しむ人々を襲った悲劇
1972年5月13日、土曜日の夜。
当時の大阪市南区・千日前にあったデパートビルで、大規模な火災が発生しました。
50年前に取材したVTRからは、その悲惨さが伝わってきます。
【消防署員】
「まだ相当濃い煙が部屋の中に充満してましたけども、辛抱しながら入っていった。ちょっとなんと言いますか…びっくりして言葉にはならないですね…」
火災は3階で発生しましたが、熱気と煙がダクトを伝って7階へ。
7階は、多くの人でにぎわう週末のキャバレーでした。
【7階にいた負傷者】
「エレベーターの方に行ったら満員になって恐慌状態で。そういうことで引き返して窓の方へ行ったんです。窓を椅子でたたき割って、空気吸って」
飲食をしていた客など118人が一酸化炭素中毒などで死亡し、81人が負傷する、日本のビル火災として最悪の人的被害を出しました。
■夜の商店街に響いた音
千日前でたこ焼き店を営む、71歳の宮本愛子さん。
50年前はこの場所で、母親と一緒に菓子店を営業していました。
火災が起きたのは、夜の10時半ごろでした。
【たこ焼き店 店主 宮本さん】
「母と2人で、閉店時間でシャッターを閉める準備をしていたら、ものすごい人が集まってきて…」
夜のミナミを包んだ混乱。しばらくすると、商店街に異様な音が響き始めました。
【たこ焼き店 店主 宮本さん】
「向こうの千日前商店街のアーケードの上に人が『ボトン』と落ちたのを見ました、女の人やったと思います。落ちる時は『キャー』って言って両手バタバタしてたけど、下に落ちたら『どすん』じゃなくて、『ばちゃっ』っていう音が…」
デパートビル内には工事による停電で閉まらない防火扉があったほか、煙に飲み込まれた7階のキャバレーでは避難誘導も行われず、大混乱に陥っていました。
火が消し止められたのは、翌日の夕方5時半。
死者118人のうち22人が、ビルから飛び降りて亡くなっていました。
■遺体を受け入れた寺 夜行列車で駆け付けた家族の記憶
火災から50年がたった2022年5月13日。
大阪市北区にある太融寺では、犠牲者の法要が営まれました。
当時の住職・麻生弘道さん(86)に、話を聞きました。
【当時の住職 麻生さん】
「キャバレーだったものですから、亡くなった人に身元がはっきり分からない女の方が多かった。身元が分からないから、遺体を持っていく場所がないんですよ」
千日前近くで遺体を安置できる場所が限られる中、寺の本堂にも犠牲者が運び込まれました。
当時麻生さんは、引き取り手がない遺体を、週が明けても受け入れました。
【当時の住職 麻生さん】
「(身元を確認する人が)夜中でも来るんですよ、夜行列車で来てね。体は焼けちゃってるんですけどズボンの切れ端があって、お母さんが『これは息子です』と。『この前の休みに大阪から九州に帰ってきて、ズボンが破れているのを私が縫った』と」
遺体を引き取りに来た家族の姿は、今も麻生さんの記憶に刻まれています。
一方で、時がたって風景も変わり、火災の記憶は人々から薄れつつあります。
【当時の住職 麻生さん】
「火災のことについて報道の方が来られたのは久しぶりですね。覚えてる方も少ないん違います?事故やなんかのときは『忘れない』と言ってますけど、よっぽどじゃないと忘れられますよね」
■悲劇を繰り返さないために
人々の記憶が薄れる一方で、社会に刻まれたこともあります。
避難できずに多くの命が失われたことから、その後法律などが改正され、大規模なビルでのスプリンクラーの設置などの義務化や、複数の避難路の確保が強化されました。
【豊中市消防局 平群さん】
「今皆さん話を聞かれて、『いや50年前の火災なんて知らんし』みたいなことを思われているかもしれないですけど」
12日、豊中市のデパートに、従業員に防火対策や火災時の心構えを話す消防局員の姿がありました。
【豊中市消防局 平群さん】
「朝礼が終わって自分の持ち場に帰ったら『消火器ここあるよな、使い方大丈夫やったよな』『非常口あそこにあったよな』というのを確認してください」
従業員を前に話をする、豊中市消防局 予防課主査の平群誠久さん。
消防学校で最初に学んだのは、「千日デパートビル火災」についてだったといいます。
【豊中市消防局 平群さん】
「ちょっとシミュレーションしたら、『これこうしたら良かったよな』とか絶対思い出すので。不定期でいいので、忘れかけたころに『考えとかなあかんわ』という風にしていただけたらなと」
あの火災から50年。千日前はにぎわいを取り戻しています。
【たこ焼き店 店主 宮本さん】
「ビルも違う建物になってるからね。近くでそんな大ごとが起きたっていうことも50年たったら忘れかけていたけど、今言われて『ああ、そうやな…』って」
忘れ去られていくことは、避けられないのかもしれません。
それでも…
【当時の住職 麻生さん】
「人の命は大切ですし、事故を起こしてはいけないですよね。こういうことがあったんだということを皆さんに分かってもらうことは大事なことでしょうね」
50年前のあの日を知る人は、静かにそう語ります。
(関西テレビ「報道ランナー」2022年5月13日放送)