「憎むべきは戦争そのもの」 原爆投下したB29副操縦士に気づかされたこと 生後8カ月で被爆した女性 次世代に伝え続ける“信念” 『過ちは繰り返しませぬから』 #戦争の記憶 2023年08月14日
アジア・太平洋戦争の終戦から78年。兵庫県在住で、戦争の語り部として活動する78歳の女性がいます。女性は、生後8カ月の時に広島で被爆しました。
自らの被爆体験を通して次世代に伝え続けていること。それは、「憎むべきは戦争そのもの」という信念です。
■生後8カ月で被爆 次世代に自らの経験を語る78歳の女性
兵庫県三木市に住む近藤紘子(こんどう・こうこ)さん(78)は、被爆者の語り部として、自身の経験を伝える活動を、国内外で続けています。
7月、兵庫県宝塚市の小学校を訪れ、広島への修学旅行を控える小学生たちに向けて、自身の経験を語りました。
1945年8月6日午前8時15分、一発の原子爆弾によって、広島は一瞬にして廃虚となり、おびただしい数の命が奪われました。
生後8カ月だった紘子さんは爆心地から1キロほどの自宅で被爆。母親の腕に抱かれたまま、がれきの下敷きとなりましたが、2人とも奇跡的に助かりました。
紘子さんの父親は、爆心地に近い「広島流川教会」の牧師だった谷本清(たにもと・きよし)さん。谷本牧師は、原爆の投下直後から被爆者の支援活動に奔走し、親を亡くした孤児や、やけどを負った女性たちの支援に力を尽くし、「ノーモア・ヒロシマ」運動を提唱した人物です。
谷本牧師は、1946年にピューリッツァー賞作家であるジャーナリスト、ジョン・ハーシー書いたルポルタージュ「ヒロシマ」にも登場。「ヒロシマ」は、アメリカの雑誌「ニューヨーカー」に掲載され、発行当日に30万部を売り上げる大反響を呼びました。
【近藤紘子さん】
「父は、私が小さい時から『お前が町内で生き残った、たった1人の赤ん坊だから、広島のため、世界のために生きてほしい』と(繰り返し私に言い聞かせた)。父は広島のことしか考えてなかったので」
そんな谷本牧師を頼って、教会に集まって来た孤児や女性たちと接する中で、紘子さんは少しずつ、原爆の恐ろしさを知っていきます。
紘子さんは3~4歳のころ、教会にやってきた「お姉さん」のことが忘れられません。その「お姉さん」は、くしで紘子さんの髪の毛をといてくれました。そのくしを見たかった紘子さんは、「お姉さん」の方を振り向きます。すると、「お姉さん」の手の指は、やけどの影響で、全てくっついた状態でした。
紘子さんは衝撃を受けましたが、「お姉さん」にそのことを聞くことはできませんでした。
【近藤紘子さん】
「その時、よく分かった。あの爆弾を落としたB29エノラ・ゲイから爆弾を落とさなければ、こんなことにはならなかったんだから。いつか私が大人になったら、絶対あの人たちを見つけ出して、パンチするか、かみつくか、蹴とばすか、したいと思った」
■原爆投下したB29の副操縦士・ルイスとの出会いで気づかされたこと
そして、その機会は、思ったよりも早く訪れます。10歳の時、父親や母親ら一家で、アメリカのテレビ番組に出演したのです。
谷本牧師はその頃、やけどを負った女性たちへの支援を求めて、アメリカ中で被爆の惨状を訴え、全米で知られる存在となっていました。番組のハイライトは、そんな谷本牧師と、ある人物を会わせることでした。
【近藤紘子さん】
「母が言いました。『紘子、あそこに立ってらっしゃる方、彼はキャプテン(大尉)、ロバート・ルイス』と言って、広島に爆弾を落としたB29、エノラ・ゲイという飛行機に乗っていた副操縦士だと」
78年前、広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」、その副操縦士だったロバート・ルイスさんが、目の前に現れたのです。
【近藤紘子さん】
「『えっ。同じ番組に出る?』もう私はびっくりして、番組が始まって、ずっとその人をにらみつけていた。あなたたちさ、あの爆弾を落とさなければ、多くの広島の人たち亡くなることもなかった。体がやけどになることもなかった。子どもたちは親を亡くすこともなかった」
しかし、司会者がルイスさんに、原爆を投下した際の心境を尋ねた時、予想だにしない答えが返ってきます。
【近藤紘子さん】
「彼は『my god what have we done』神様、私たちは何てことをしたんでしょうと。それを言った後、にらみつけた彼の目から涙が落ちたのをしかと見た。私はずっと悪い人、あの人は悪い人。あの人たちは鬼だと思っていた。その人の目から涙が出て…。私ははっとした。『えっ、私と同じ人間』」
苦しむ被爆者の姿を間近に見ながら育ってきた紘子さん。しかし、憎み続けてきたルイスさんもまた、原爆を投下した事実に、苦しんでいたのです。
ルイスさんは、自ら集めた支援金の小切手を谷本牧師に手渡し、被爆者のために使ってほしいと申し出ました。紘子さんが「憎むべきは彼ではなく、戦争そのものだった」と気づいた瞬間でした。
【近藤紘子さん】
「私はそっと キャプテン・ルイスの手に触れた。私にできる精いっぱいのごめんなさい。キャプテン・ルイスは、私の手をしっかり握ってくれた。今でもその人を忘れることができない」
■思春期の頃…屈辱的だったABCCでの調査
広島市内にある、「放射線影響研究所」。放射線の研究をするため、日本とアメリカが共同で運営しています。ここはかつて、「原爆傷害調査委員会」、ABCCと呼ばれ、原子爆弾が人体にどんな影響を及ぼすのか調べるため、アメリカが設立した組織でした。
広島に住む被爆者が調査対象となり、紘子さんも小学生の頃から訪れていたのですが、中学生になったある日、いつもと違う部屋に連れて行かれました。そこでの屈辱的な体験は、今でも忘れることができません。
【近藤紘子さん】
「部屋の中から声が聞こえたのね。で、英語、これは英語だってのは分かる。これはちょっとフランス語だろうなとか、ドイツ語とか、自分で想像して、これは何だろうと思って、もしかしたら世界中のお医者さんが集まってんのかなと思った。(部屋の)中に入ったら、舞台の上に上がるように(言われて)上がったら、『ガウンを脱いでください』。やっぱり脱いでくださいと言われたら脱ぐほかないよね。腹立たしかった。中学生だから、子どもの頃の体がだんだんね、胸も膨らんでくるし。私がこの戦争を始めたわけじゃないのに、何で私はここまでしないといけないかっていうのは、すごいあったね」
専門家は、「ABCCは、放射線が子どもの発育に与える影響を調査していた」と指摘します。
【奈良大学文学部・高橋博子教授】
「(原爆は)人を殺すための兵器なので、放射線の影響も含めて、どれだけの効果があったのか、ということになりますよね。軍事目的の調査があった。体毛であったり、恥毛の調査であったり、女性だったら生理(の調査)。思春期の子どもたちにとっては、本当につらい調査がされていた」
■「原爆と向きあいたくない」 父の本心を知り…37歳で再び広島へ
「もう二度と、あの施設に行きたくない」と紘子さんは、被爆者の支援活動を続ける父親の元を離れ、原爆のことを考えない日々を過ごすようになりました。
そんな紘子さんが、再び原爆と向き合うようになったのは、37歳の時。牧師を引退する父親が開いた最後の説教で、原爆についての父親の本心を聞いた時でした。
【近藤紘子さん】
「(78年前の8月6日に)『助けて助けて』という声を聞いて、自分はその声を振り切って、自分の家族、自分の愛する教会員、自分の愛する町内の人しか、最初広島を見た時、その人たちのことしか思わなかったという自己中心的な気持ち。それが悔いとなって残ったからこそ、自分は広島の被爆者のために生きようと思ったと聞いて、やっと私も立ち上がり、何か私にできることがあればと思って、今は動いています」
紘子さんは、以来およそ40年にわたって、世界中を飛び回り、平和の大切さを訴えてきました。
8月6日、紘子さんは、毎年欠かさず、広島の平和記念公園を訪れています。
公園の中央にある原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という碑文が書かれています。紘子さんは、この碑文を前に、静かに平和を祈りました。
【近藤紘子さん】
「私、この言葉大好きです。私はキャプテン・ルイスにこの言葉を渡したい。自分がとった行動についてずっと心を痛めてきた。『安らかにお眠りください。過ちは繰り返しませぬから』。この言葉を、1人でも多くの人に伝えていきたい」
戦後78年。いつまで、語り部として活動できるか分かりません。それでも、命ある限り、平和を願い続けます。
(関西テレビ「newsランナー」2023年8月14日放送)