世界的抹茶ブームで大忙し 室町時代から続く日本一の「茶せん」作りの里で匠の技を見た 奈良・高山【兵動大樹の今昔さんぽ 関西テレビ「newsランナー」】 2025年03月16日
1975年(昭和50年)ごろに奈良県生駒市で撮影されたという、竹のようなものが組まれて雪の畑に置かれている写真を手掛かりに、探索へ出発します。
■地元の人は「茶せんで有名」だという
近鉄生駒駅近くの「ぴっくり通り」という面白い名前の商店街で聞き込みすると、「生駒市高山町に茶せんを作るので有名なところがある」「茶せんの里というのがある」と情報がありました。
高山の町を歩くと、あちらこちらで「茶筌(ちゃせん)」の看板が目に入ります。生駒市高山町は茶せんの生産量日本一を誇ります。
この地で古くから営業している「くすりの早野」の店主・早野琢雄さんが、写真中央の上の方に写る建物が、代々茶せんを作っている「竹茗堂左文(ちくめいどうさぶん)」だと教えてくれました。
■高山が「茶せんの里」になったのは室町時代
「竹茗堂左文」では、24代目・久保左文(さぶん)さんと、25代目・久保左元(さゆき)さんが茶せん作りについて教えてくれました。
写真は、「寒ざらし(寒干し)」という作業で、茹でて油分を抜いた竹を1月頃から干し、寒さと紫外線にさらすことで竹の青みを取ります。取り込んだ竹は少なくても1年以上、普通は2~3年ほど倉庫で寝かせて茶せんに使うのだそうです。
高山の地が「茶せんの里」となった始まりは室町時代。この地を治めていた高山城主の次男が、のちに千利休にも影響を与えた「わび茶」の祖・村田珠光に茶せん作りを依頼されたのが始まりです。以来、久保家は今も数少ない茶せんの伝統工芸士として活動しています。
■海外でも認知高まる「竹茗堂左文」の茶せん
かつては花嫁修行のひとつとされた茶道ですが、時代の変化とともにたしなむ人も減ってきました。
久保左文さんは子孫にもこの仕事を継いでほしいという思いで海外展開を進めてきました。
パリのルーブル宮殿にある「装飾芸術美術館」での展示やパリのジャパンエキスポ、またニューヨークでのイベントなどで茶せんの魅力、美しさをアピールしたこともあり、徐々に海外での認知度も高まってきました。
抹茶はもちろん、コーヒーや紅茶などにも気軽に使えるマドラーを考案するなど、新たな取り組みにも余念がありません。
【兵動大樹さん】「生駒の高山町、日本の茶せんのほとんどが作られているという、長い歴史もありました。お茶は敷居が高いという方はコーヒーに使えるマドラーもありますので、ちょっと使ってみると、いい時間が過ごせるのではないでしょうか」
▲兵動さんの今と昔を探る旅の全ては、動画でじっくりお楽しみください。
(関西テレビ「newsランナー 兵動大樹の今昔さんぽ」 2025年3月7日 金曜日放送)